NIジャパンブログ

【翻訳記事】世界の国のプロフィール:カンボジア


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英語の記事はこちらのUKサイトで閲覧できます


プノンペンで建設工事の音が聞こえない場所はほとんどないだろう。夜が明ければ、昔から首都ではなじみの路上の物売りの口上とバイクタクシーのクラクションという音に混ざり、現在ではあちこちからビル建設の工事音が聞こえる。実際カンボジアでは、建設分野への投資は記録的なブームで、過去5年でそれは3倍となり、2016年は合計で70億ドル以上の建設計画に認可が下りた。低層の建物がほとんどだったこの町に、ショッピングモール、マンション、複合娯楽施設が見下ろすようにそびえ立つ。これらは、カンボジアが消費の文化とトレンドを従えてグローバルな資本主義の世界に仲間入りを果たした記念碑なのである。

10年以上にわたる大量殺りくと内戦を経て、たった20年前から壊れやすい平和を少しずつ取り戻している国にとって、現在進む数え切れないほどの新しい建設プロジェクトは、進歩の象徴として待ち望まれていた光景なのかもしれない。しかし、このような性急な都市基盤造りのように、カンボジアの表面的な近代化は危うさをはらんでいる。国全体としての生活水準は向上し、到来した経済成長でアジアの「タイガー経済」の異名をとるカンボジア。しかし、30年にわたるフン・セン首相の支配の間、大多数のカンボジア人にとっての公平な社会、経済、政治を実現するために行われたことは、ほんのわずかである。

建設現場では推定30万人が働き、労働者のほとんどは地方から出てきた人々で、その多くは子どもたちである。彼らは1日7ドルあまりで危険な環境の中で重労働を強いられ、まるで強制労働のような状況で働いている。同じような状況に置かれているのが、この国の経済を支えるもうひとつの屋台骨である衣料品産業だ。100万人の労働者が首都プノンペンの無数にある工場にやって来て、不安定な短期雇用契約の下、安い場合は1日4ドルで働いている。この状況とは対照的に、新しく見いだされたカンボジアの富は、政治、ビジネス、軍による目に見えない編み目で構成される支配層のエリートたちによって吸い上げられている。

カネの流れと同じように、政治の力も集中したままだ。公式には、決まった期間で選挙が行われる議会制民主主義の制度の下、1998年からはフン・セン首相率いるカンボジア人民党(CPP)が与党としてこの国を治めてきた。彼は、クメール・ルージュ(1975年~79年の大虐殺を行った)[訳注:カンボジア共産党を中心とした勢力の別名で、米国の傀儡であったロン・ノル政権を倒して1975年にカンボジアを支配した]の司令官[訳注:地方大隊の司令官]のひとりでもあった。野党は公式に認められた存在で、政治的な異議を唱えたり市民社会の活動も許容されている。しかし、その動きは常にCPPによって監視され、許容範囲はかなり狭められてきている。

昨年、CPPの主要なライバルであるカンボジア救国党(CNRP)のカリスマ指導者サム・ランシーは、10年間で3度目となる亡命を余儀なくされた。その他の野党メンバーは、殴打され、嫌がらせを受け、恣意(しい)的に逮捕されている。そしてまたNGOと市民社会に対しては、先日の有名な5人の人権活動家が容疑をかけられ拘束されたこと(国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチは「茶番」だと述べた)からも分かるように、締め付けがより強まっている。

これらの政治家や活動家よりは目立たないが、カンボジアには強制立ち退きと極度の貧困に直面した人々がいる(その数は2000年から80万人に上ると推測されている)。彼らは、政府関係者と治安部隊、その関係企業によってもたらされた土地収奪促進政策の犠牲者である。このカンボジアの土地収奪に関しては、調査記録書類が国際刑事裁判所に提出されている。その書類には、国を支配するエリート層によって行われているこの違反は、人道に対する罪に匹敵するものである、という主張も含まれている。

グローバル・ウィットネスなどのキャンペーン団体は、海外投資家はこのような状態を警告と受け止める必要があると注意を促す。カンボジアへの最大の投資家は中国で、建設プロジェクトの大半に中国企業が名を連ね、この国は中国の地政学的な影響範囲によりしっかりと組み込まれつつある。中国が騒動のもとになるとは思えないが、この国の疑問が残る開発援助方針が、長年の西側の支援国で最大の貿易相手国(英国と米国)に再考を促すかもしれない。◆

by ゾー・ホルマン

データ 170530Flag_of_Cambodia.jpg


首相:サムデック・フン・セン(国家元首はノロドム・シハモニ国王)
経済:1人当たりの国民総所得(GNI)は1,020ドル(ベトナム1,890ドル、フランス4万2,960ドル)
通貨単位:リエル
主な輸出品:衣類、木材、ゴム、米、魚類、タバコ
観光業の重要度が徐々に高まっている。年間の訪問者数は、前回のプロフィール調査時(2007年7月)と比べて2倍以上の450万人で、観光産業での雇用も50万人となり、主に女性が働く衣料関連産業と製靴産業の従事者数60万人にも近づいている。政府予算の3分の1を海外援助でまかなっている。
人口:1,560万人。人口増加率は年2.2%(1990~2015年)。人口密度は1平方キロメートル当たり88人(フランス122人)
保健:1,000人当たりの1歳未満児死亡数(乳児死亡数)は25人(ベトナム17人、フランス4人)。妊産婦死亡の生涯リスク[訳注1]は210人に1人(フランス6,100人に1人)。HIV感染率0.6%。
環境:現在カンボジアでは、世界最悪レベルのペースで森林破壊が進む。1990年に73%だった森林被覆率は50%を下回っている。原因のほとんどは、土地の使用権などの許認可と違法な森林伐採である。国の主な水路を提供しているトンレサップ湖は、大規模ダム建設と魚の乱獲に苦しめられている。
民族:公式には96%がクメール民族だが、実際には中国系、ベトナム系、イスラム教徒のチャム民族で約10%を占める。特にチャム民族に対する差別が広範囲に見られる。
宗教:仏教徒が公式には90%を超え、わずかながらイスラム教徒も存在する。
言語:公用語はクメール語で、そのほかに少数派の言語も使われている。

人間開発指数[訳注2]:0.555で、188カ国中143番目(ベトナム0.666、フランス0.888)。

訳注1:妊娠や出産時、あるいはそれに関連する病気で死亡する生涯にわたるリスクのこと。妊産婦死亡率は1回の出産に対するリスクとなるため統計の取り方が異なる。
訳注2:各国の人間開発の度合いを測るための経済社会指標で、国連開発計画の「人間開発報告書」で毎年詳細が報告される。指数は0から1で示され、1に近いほど個人の基本的な選択肢が広く人間開発が進んでいるとされる。

NI五つ星評価
(前回の評価は2007年7月)

とても良い★★★★★
良い    ★★★★
普通    ★★★
悪い    ★★
ひどい   ★


所得配分 ★★
カンボジアは、20年にわたる経済成長を経て、低所得国から低中所得国の仲間入りを果たし、貧困削減目標も達成した。しかし、依然として国民の18%が1日2.5ドル未満で暮らしている。
2007 ★

平均寿命 ★★★
69歳(ベトナム76歳、フランス82歳)。
2007 ★★

女性をめぐる状況 ★★
カンボジアの議会における女性の割合は現在20%だが、日常における女性たちの社会、政治、経済への参加は保守的なジェンダーの規範によっていまだに限定的である。性的な暴行やドメスティック・バイオレンスの割合は、東南アジアで最も高い。
2007 ★★

自由 ★★
多数のメディアが存在するものの、報道機関はほとんどが与党やその関係企業の所有となっている。抗議活動は理屈の上では合法だが、デモは多くの場合強制的に解散させられ、活動家や野党政治家への脅迫や拘束が日常的に行われている。
2007 ★★

識字率 ★★★
74%。これまで長い間低かったが、徐々に改善されている。初等教育就学率は95%に向上。
2007 ★★

セクシャルマイノリティー ★★★
同性愛は合法だが、ノロドム・シハモニ国王のセクシャリティに関するフェイスブックのスキャンダルが示すように、偏見と差別は根強い。援助国に促されたカンボジア政府は、LGBTの権利と認知度に関する支援策を行っている。
2007 ★★★


NIによる総合評価

政治 ★★
CPPは、選挙民主主義という衣装をまといながら、ベテラン政治家フン・セン首相の取り巻きたちによって作られた政府を維持している。汚職がはびこり、地域の最も弱い人々は法律をあてにすることはできず、日常の市民の権利は無視されるか容赦なく侵害され、それが顕著なのが土地収奪問題である。CPPが脅迫、強要、プロパガンダの戦術をより強めていく傾向が見られ、最近では人々の不満が噴出して動きが活発化している。
2007 ★★

2017年4月号NII501「Populism rises again」から「Country Profile: Cambodia」の翻訳です。


  1. 2017/05/30(火) 23:40:04|
  2. 国・地域

【翻訳記事】旅の終わり


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写真は1985年、28歳のマリアマ・ガネマ。
(画像をクリックするとNIの英語記事のページが開きます)




今回クリス・ブレイザーは、1985年から10年ごとに訪問している西アフリカのブルキナファソの村を再訪した。

サブテンガ村に続く新しい道路ができていた。私はとても慎重にその道路をミニバイクで旅したが、素晴らしいことに危険な目に遭うことは全くなかった。時代とともに変わる私の交通手段は、地域の開発を反映している。

1985年、私は撮影スタッフの一員として初めてこの地を訪れた。その当時は、現地で依頼した四輪駆動車に機材を積み、川を渡って村へ行った。村の中では徒歩であちこち歩き回った。1995年に私が初めてひとりで訪問した時は、どこへ行くにも徒歩だった。ガランゴの町まで4キロメートルの道のりを歩き、村の周囲も毎日かなりの距離を歩き回った。2005年、私はガランゴの町に滞在し、市場で買った自転車で村へ行き、その周囲を回り、自転車は帰国の時に人に譲った。

私は今回も同じようになるだろうと考えていたところ、私の訪問に不可欠な協力をしてくれたダクパ協会という地元の優れたNGOが、私に原動機付交通手段を用意してくれた。

 はるかかなたの世界

1985年夏、私は30歳の誕生日をサブテンガ村で迎えた。当時私はニュー・インターナショナリスト内ではどちらかといえば新入りのスタッフで、その時は出演者探しの仕事を与えられていた。それは、TV用ドキュメンタリーフィルム『Man-Made Famine(人間が生み出した飢餓)』撮影のため、カメラの前で自分の生い立ちや境遇などを語ってくれる女性農民を探すというものだった。当時、革命の騒動の真っただ中にあったブルキナファソで、私は現場の成り行き任せで女性を探そうとしていた。しかし、適任の女性が南東部のガーナとトーゴーとの国境近くのサブテンガ村にいるということが分かったのは、私の努力ではなく監督のつてによるものだった。私は撮影には何の役にも立たないスタッフとなってしまった。そんな状況もあり、私はしばしば単調になる撮影に付き合うことをせず、マリアマ・ガネマというい若い女性と一緒に村を歩き回ることにした。当時マリアマは、地元の革命防衛委員会の女性代表に選出されていた。また、私の通訳兼ガイドを務められるだけの十分なフランス語を学校で習っていた。

その後私は、人として、そしてジャーナリストとして、無数の幸運によって素晴らしい機会に恵まれたことにすぐに気づいた。その村の生活は、欧米諸国の生活とは想像以上にかけ離れたもので、住民は自給自足の農業で生活し、サヘル[訳注:サハラ砂漠南縁部の半乾燥地帯]の気難しい大地から収穫できる作物でなんとかやっていた。ほとんどの人々は畑で使う家畜も持っていないようで、ダバスと呼ばれるくわを持って大地を耕すという骨の折れる作業を行っていた。水は、頭に乗せた大きな容器に入れて井戸から運び、しばしば遠くの井戸から運ばれてきた。ほとんどの家庭では、まぎれもなく男性が世帯の主となっており、複数の妻を持つことも珍しくはなかった。そして村には、学校も保健センターも存在しなかった。

これを言い換えれば、本誌の中でいつも議論しているような村、あるいは国連や世界銀行といった権力層が思い描く「開発」を経験したことのない村である。

村の生活は、文化や富という意味でも欧米の生活とはかけ離れているが、私の故郷の人々とサブテンガ村の人々の間の共通点らしきものを発見し、正直なところ驚いた。それでも私はグローバルな正義と公正という概念に強くこだわっており、すべてのアフリカ人を十把ひとからげにして同じ箱に入れ、「貧困、飢餓、紛争など」というラベルを貼っていた。この点で私は依然として罪を背負っていた。今では私も、単なる知識というよりも、心情的に理解していることがある。それは、誰にでもその個人に特有の語るべき物語があり、その多くは困難な中でも生きていくということにまつわる物語で、家族と友人から強さと支えを得ていることにも関連する話だということだ。私は後にこう記した。「いったんその村の中に足を踏み入れれば、そこでの生活が可能であることに気付くだけでなく、そこにはあらゆる人間ドラマが繰り広げられていることが分かり、人々の姿がいきいきと浮かび上がる。アフリカの村人たちの姿は、論文の中の統計や意図的なイメージで出版物に描かれている姿とは違って見えてくる。彼らは現実に肉体と感情を持ち、単なるひどく痛々しい最期だけではなく、誕生と日常の営みもあることが分かる。人々は愛し、笑い、踊り、夢を抱き、苦しみ、喜ぶが、これらのことは私たちと何ら変わらないのだ」

一言で言えば、物質的、文化的に大きな隔たりがある中で、私は友人を得ることが可能だと感じたのだ。もちろん、マリアマはその鍵となる人物だった。彼女は驚くほど惜しみなく時間を割いてくれて、彼女自身の人生と物事への向き合い方について包み隠さず実に率直に語ってくれた。通常は外からやってきたジャーナリストには困難なあらゆることが、村における彼女の人気や尊敬のため可能になった。

1985年のサブテンガ村での私の経験は、私の世界の見方を変え、その後10年間執筆したものにも一定の方向性を与えた。しかしそれでも、この貴重な機会を十分に活用できていないと感じた私は弊誌編集部に訴え、次の10年の「開発」の歩みがコミュニティーの生活にもたらす変化を取材するため、1995年に私が現地取材できるよう説得を試みた。

 カミソリの終わり

村人たちと郵便でやりとりすることが不可能と分かり、どうすればいいいのか、私が出会った人々が無事でいるのかをどうやって確かめられるのか、私は途方に暮れた。私が最初に訪問した1985年は、雨が降らず食料の備蓄は徐々に減ってほとんど底をついた。この国の貧困と保健に関する全般的に悲惨な統計を読めば、どんな災難が起きても不思議ではなかった。さらには、腐敗した次期大統領ブレーズ・コンパオレによって平等主義的な革命がつぶされた。彼は1987年、元同胞であり、未来への理想的な道のりを明確に持っていたトーマス・サンカラを殺害し、その後は昔から変わらない私腹を肥やす道のりを進んだ。

だがとても喜ばしいことに、私が主に連絡をとっていた人々は無事で元気にしていることが確認できた。さらには、開発という意味でも喜ばしい変化を多数報告することができた。今では村にも3つの教室を備えた学校ができたものの、それでも必要な教室数の半分である。だが、いずれにしろ前進している証ではある。そして「診療所」は、これまでずっと薬はなくスタッフも不在のままだったが、現在は看護師と彼の妻がアシスタントとして働いて保健センターとして完全に機能しており、とりわけ母子保健に関する取り組みに積極的になっている。

そこでの出産の多くを取り上げたのはマリアマである。彼女はわずかな給料をもらいながらフルタイムのアシスタント保健スタッフとして働いた。彼女は専門の研修は受けていないが、仕事を通じて学んでいった。

彼女はその時38歳となり、7人の子どもがいた。10年前彼女は私に、子どもは4人で十分、と言っていた。その当時、子どもたちの面倒を絶えず見なければならないことを考え、自分のために人生の時間を使いたいという思いを抱いていたのだ。しかし彼の夫のイッサは彼女の望みを聞き入れず、子どもは多ければ多いほど田畑での労働力の足しになり、老後の生活も安心できる、という伝統的な農民の考え方を肯定した。また一方で、首都から村に有効な避妊方法が伝わってきたのは1990年代初めになってからだった。

1995年に報告した話の中で、最も大きく希望にあふれる話もまた、マリアマ自身の人生に直接関係するものだった。10年前、村で初めて、そして唯一FGM(女性器切除)という慣習に反対していたのがマリアマで、彼女自身はFGMを受けていたが、長女のメムナツのFGMは許さなかった。私はこれには大きく動揺した。彼女は夫や村の実力者たちに、この習慣に従うよう強要されないだろうか? それとも、この件は高齢の「良識ある女性たち」の中の誰かに委ねられ、結局メムナツにはカミソリの刃が向けられてしまわないのか?

私が知った結末は、実に珍しいものだった。メムナツに加えて妹のアセタもFGMを受けていないだけでなく、マリアマのような地域の女性たちからの圧力と政府が発信したFGMが健康に与える深刻な悪影響についてのメッセージが相まって、村での風向きは変わった。ほとんど目の見えない村長が私に、FGMをやめるべきだという考えに変わった経緯と理由を語った。そして、以前はFGMに3年かかわっていた高齢の女性までもが、新しい考え方に変えたことを私に話してくれた。

1995年の弊誌特集号「Heart and Soul: ten years of change in an African village(ハート・アンド・ソウル:アフリカの村における10年の変化)」は好評だった。おかげで、さらなる変化を探るために10年後に再度現地取材をするという私の提案は、スムーズに承認された。そして2005年、村は依然として自給自足の農業コミュニティーだった。現金は、おおむね海外からの送金がある場合に限られていた。そして、特に生活に最低限必要なものに関して、さらに多くの発展について報告することがあった(本誌英語版p14-17"Then and Now"の写真を参照。30年での大まかな変化を示している)[訳注:"Then and Now"の一部翻訳をNIジャパンメールマガジン第172号に掲載]。

2005年、わずかだが村でも携帯電話を使用する人が現れた。ただし充電は、電気が通ったばかりの町ガランゴまで行く必要があった。そして2016年の訪問では、以前に比べれば旅の日程は手探りではなくなった。私は携帯電話のテキストメッセージをマリアマに送り、彼女と他の村人たちに私が村に向かっていること、そしていつ頃着くのかを前もって正確に伝えることができた。

 2016年の村

今回の訪問も今までとは変わらない。私は危険もあるミニバイクで旅をし、この雨の季節にはいくつか現れる道路を横切るマリゴ(季節によって出現する小川)もミニバイクで渡った。今回は村でどんな発見があるのか、胸が高鳴っている。未舗装ではあるものの、でこぼこのないびっくりするほどきれいな新しい道路が、アスファルトの主要道路から枝分かれして伸びている。しかしそんな道も、サブテンガ村の中心部まで2~3キロメートルのところで昔と変わらないより普通の柔らかい砂の道になる。

私は、これまでこの村で多くの時間を過ごし、主な目印となる物や建物を容易に認識できるようになっていると自負していた。しかし、最も乾燥した時期に訪れた1985年から最も雨の多い時期の訪問だった2016年まで、毎回異なる季節に訪れており、そのせいで目印はいつもだいぶ違うように見える。あるいは、単に私の記憶があいまいになり、方向感覚もかつてないほどひどくなってきているだけなのかもしれない。しかしどんな理由にせよ、私はなんとか正しい道をたどることはできたが、ある建物の前を保健センターとは気付かずに通り過ぎ、私の古い友人のオウスマネがそこの薬局から出てきて私に声をかけようと追いかけてきてようやくそれに気付いた。

私は帰ってきた。さて今回、人々の暮らしにどんな変化が見られるのだろうか。◆

※写真付の記事は、他の記事とあわせて3月にPDF版に掲載予定。


2017年1/2月合併号NI499p10-12 Journey’s End の翻訳です。c499-100.jpg



  1. 2017/02/15(水) 00:39:22|
  2. 国・地域

【翻訳記事】ある一夫多妻家族の父親


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写真は73歳のアダマ
(画像をクリックするとNIの英語記事のページが開きます)


4人の妻と26人の子どもたち…。農業事業の経営者…。アリマタの看護師の夢…。

ゼナブーとアダマの一家は、サブテンガ村の中心から離れたビディガという場所に住む。1985年、ゼナブーの物語を撮影して映画を作った際には、私たちはその場所を拠点にした。彼女は、ガランゴ地区の当時の地区長の娘だ。村では地位が下になるアダマに恋をし、結婚をした。私たちがゼナブーに会った時、アダマにはすでに2人目の妻マリアムがいた。そして私たちがいる間に新しい子どもが生まれて洗礼も受けた。

1995年にブルキナファソを再訪した際、私はゼナブーの居住地「コンセシオン」[訳注:マリアマのコンセシオン内部の様子はこちらのYoutubeから視聴できる]から少し丘を登ったところにある以前と同じ家に滞在した。私が着いて1週間が過ぎたころ、腰が抜けるほどの発見があった。アダマと話をしていた時、彼の知人、あるいはもしかすると娘かと思っていた女性が、私たちの前を通り過ぎてまっすぐアダマの家に入っていった。よく見た光景のような気がして、私は身を乗り出してアダマに彼女のことを尋ねた。そして分かったことは、彼女はアダマの新しい4人目の妻のビンツで、まだ16歳だということだ。

私は、一夫多妻が普通という社会に滞在しているということは理解していたが、それでも毎日のように驚くことがあった。男女の関係に関する概念は、私たちとは根本的に異なるのだ。ビンツが、当時52歳のアダマには孫と言っていいほどの年齢であることはひとまず置いておいて、彼が4番目の妻をめとるべきだと考えたのは非常に特殊なことのように思える。依然として不思議なのは、ビンツが彼の古い友人の娘で、最初は彼の息子ハマルの結婚相手として紹介されたということだ。ハマルがその話を断ると、アダマが代わりに結婚すると申し出た。これには「慈悲」の側面もあったようだが、それもすぐに気にならなくなったようだ。彼女は自分の寝室もまだなく、毎晩アダマの家で寝ていたが、そのことに対しては他の妻たちから軽いひやかしの言葉が投げられた。その理由は、夫はどの妻にも公平に好意を持って気配りすることが求められているからだ。

 「若い男はとても愚かだわ」

私が直接ビンツに尋ねた時、若い男はとても愚かなので年齢は上の方がいい、と彼女は言った。もちろん彼女は、児童婚で搾取されているとは思っていない。彼女と両親は、経済的に安心できることを判断して結婚に同意したのだろう。アダマは稼ぎ手としてしっかりしていたし、地域のマラブ(イスラム教聖職者)として信頼も非常に厚かった。

経済的には期待通りだった。私は訪問のたび、アダマの農民として取り組む姿勢(経営者としても)には感心させられた。正直に言うと、今振り返れば、私たちが制作したドキュメンタリー映画『Man Made Famine(人間が生み出した飢餓)』は、彼の名誉をやや傷つけていた部分があった。私たちは映画の中で、アフリカの女性たちがたくさんの食料を栽培しているにもかかわらず、それが政府や援助団体に概して無視されていることについて重要な指摘を行った。そしてその中に、アダマが大きな態度で女性の方が男性よりも働き者であることを認める象徴的なシーンがあった。「彼女がとても一生懸命働き、疲れていることは私自身分かっていたよ。でもね、伝統と習慣が、私に彼女を手伝うことをやめさせたんだ。その場所でその仕事をするのは女性と決まっていた。私が彼女を手伝うべきだなんて、思わなかったよ」

しかしアダマはその時は、主に家事について語っていた。農作業については、彼が主要な責任を負っていることは間違いないし、重労働も進んで行っている。彼は常に畑に出ているので、話を聞く時間をとるのが難しいくらいだ。ある日、彼の孫のンワディサに、畑にいる彼を一緒に探して彼のもとに連れていってくれるように頼んだ。するとそれは、主要道路の反対側にある農地までのかなり長い旅となった。その農地は、ジグソーパズルのように区切られた田んぼになっており、貯水池から水が引かれていた。今までこの村で見たこともなかった新しい灌漑システムを使用していることに私は感銘を受けた。以前は、この村のような乾燥した場所でこんな水田が可能だとは考えたこともなかった。

 ズボンをまくって田んぼの中へ

いつもの通りアダマは、私とおしゃべりをして時間を浪費するよりも、仕事を終わらせることへの関心の方が強かった。娘たちが苗代の苗で田植えするため、彼は田んぼに向かって準備に集中していた。私は何もせずに日陰に座っていることに少々居心地の悪さを感じていたところ、娘のひとりから冗談めかして手伝ってくれないかと言われ、私は性急に靴を脱ぎ、ズボンのすそをまくり、寄生虫によって住血吸虫症にかかるリスクも顧みず、彼らの作業に加わった。2005年にこの家族と一緒に綿花を摘んだ時と同じように、私が二つ返事で協力したことに彼らは喜んだ。

この田んぼは農業協同組合活動の一環で、アダマはその組合で灌漑担当グループのリーダを務めていると説明した。道路の反対側ではこのような灌漑は不可能で、明らかにこちらの農地の方が有利である。また、村人たちが化学肥料に切り替えたのは7年前からだが[訳注:ある日村に農学者がやってきて化学肥料の効果を説明したが、村人たちは家畜のふんで十分と取り合わなかった。しかし化学肥料を使用した農民の収穫量増加を目の当たりにし、次々と化学肥料に切り替えていった]、彼は数十年にわたって化学肥料を使っている。彼は70代半ばで、私たちの社会ではその年になれば退職後の人生を楽しむこと以外は考えないだろう。しかし彼はますます活動的になっている。

このような状況で、おそらく彼の4人の妻は経済的な面では不満はほとんどないだろう。1995年、若い妻たちが家に迎えられたことに対し年齢が高い妻たちが適応していく中で、彼女たちの不満にはうすうす気付いていたが、今日のような状態になっていくことはおそらく自分でも分かっていた気がする。2005年と2016年には、他の妻たちがいることで家事を分担できるメリットがあるという基本的な考え方に基づき、妻たちはとても仲の良い姉妹のような感じになっていた。

そして現在、なんという大家族になったのだろうか。子どもは26人となり、孫は何人いるのか正確には分からない。その中の最年長の娘2人のうちのひとりが、2006年5月号のNIの表紙を飾ったサラマトゥである。1995年に会った時、彼女は聡明な女の子で学校に通っていた。私はアダマに、将来彼女が中学校に行く学費を払うつもりなのか、あえて尋ねてみた。すると彼は、そうするつもりだと答えた。

2005年に再訪した時に最も落胆したことのひとつが、彼がそうしなかったことだ。そのため彼女は伝統的な結婚年齢である17歳で結婚するほか選択肢はなく、彼女の夫の家族と暮らしていた。近くの村に彼女と彼女の生まれたばかりの赤ちゃんを訪ねて行った時、彼女の置かれた状況に私はショックを受けた。彼女の夫は仕事を探しにコートジボワールへ行き、いつまた一緒に暮らせるのかは分からない状況。そして彼女は夫の家族と一緒に暮らしていたが、実家での健康的な暮らしに比べれば厳しい状況にあった。

幸いにも今回の訪問で、少し良いニュースが聞けた。サラマトゥは現在夫と3人目の子どもと一緒にコートジボワールのアビジャンに住んでいる。そして2人の娘ンワディサとレイラはサラマトゥの両親と一緒に暮らしており、サブテンガ村の学校に行くことができるという。

また、私の横で田植えをしているビンツの娘のアリマタは、21歳だが現在も学校に通っている。このことを考えると、アダマはおそらく女の子の教育に関して考えを変えたのだろう。アリマタは、薬剤師か看護師になることを目指している。



2017年1/2月合併号NI499p20-21 Autumn of the Patriarch の翻訳です。c499-100.jpg



  1. 2017/02/01(水) 23:29:40|
  2. 国・地域

【翻訳記事】報道されなかった2016年


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Thijs PaanakkerCC BY 2.0
アムステルダムのアイ湾で会話をする人たち
「人間社会のどんな問題であっても、解決のための最良の方法は、すべての当事者が座って対話をすることである」
ダライ・ラマ
このダライ・ラマの言葉は上の写真の引用元にあった言葉ですが、2017年はこの言葉が特に実践されることを望みます。



※あまり報道されなかった2016年のニュースを取り上げています。各ニュースの写真は、こちらの英語ページに掲載しています。


アフリカ Africa

◆南アフリカ South Africa
写真は、麻酔薬を打ったクロサイを横たえるところで、クラークスドロップ郊外の農園で慎重に行われていた。密猟を防ぐために、これから角を切断するのである。密猟数は減少し、この対策の効果は現れている。2016年の1月から7月の間に発見されたクロサイの死がいの数は702体で、昨年同時期は796体だった。しかし環境省の調査によれば、ゾウの密猟が増えたという。2016年1月から7月までの間に密猟容疑で414人が逮捕された。

◆モロッコ Morocco
この高齢の女性は、スペインの小さな飛び地領土メリリャから国境を越えてモロッコへ向かう。彼女は、背中に商品を背負って毎日売りに行く何千という行商人のひとりだ。中には、80キログラムもの荷物を背負う行商人もいる。彼らにとって国境越えはたやすいことである。このようにして越えていけば非正規の取引ができ、関税の支払いを免れることできる(「個人の荷物」であれば運び込みは合法である)。しかし難民が国境を越えることはほとんど不可能だ。2016年にスペインは、庇護を求めてやってくる人々がこの北アフリカの飛び地からEU(欧州連合)に到達することを防ぐため、警備を強化した。メリリャは現在10メートルのフェンスと堀に囲まれ、警備員が配置されている。

◆ガボン Gabon
すでに見た光景? 選挙後の9月、2009年の選挙後と同じ状態が繰り返されたガボン。今回は現職のアリ・ボンゴが獲得票の割合で1%に満たない僅差で再選を決め、その後に政府に対する抗議活動が勃発。対立候補のジャン・ピンの支持者と警察が衝突した結果、首都リーブルヴィルにある議会の内部は写真のように黒焦げとなった。衝突で3人が殺され1,000人以上が逮捕された。選挙を監視していた複数の海外組織はこの選挙を批判し、ボンゴは資金とメディアをより有利に活用して役立てたと述べている。


ヨーロッパ&中央アジア Europe & Central Asia

◆ベラルーシ Belarus
子どもたちは、リハビリテーション・保健センターで理学療法を受けている。場所は、1986年のチェルノブイリ原発事故によって汚染されたミンスクの郊外だ。ユニセフ(国連児童基金)によれば、原発事故後に生まれた子どもは、放射能降下物が原因で、甲状腺がんにかかりやすく、その他さまざまな健康問題も引き起こしやすい。事故から30年を迎え、リトアニアとの国境沿いに建設中の原子力発電所に対して怒りが広がっている。政治家のミカライ・ウラセヴィッチは報道陣に、政府は「火葬場を建設している」と述べた。

◆トルコ Turkey
4月、イスタンブールの主にクルド人やアレヴィー人が住む地区に、民兵組織が現れた。その地区では、政府の少数民族への対応を非難するデモが定期的に行われている。2016年、エルドアン大統領のクルド労働者党に対する取り締まりは、一層厳しいものになっていった。エルドアン大統領は5月、30年以上に及ぶクルド人独立に向けた戦いの終結を目指して2012年に始まった和平交渉について、再開はないだろうと述べた。彼は、「反逆者の最後の一人を殺すまで」軍事行動を続けるだろうと語った。

◆ウクライナ Ukraine
アゾフのサマーキャンプでの一コマ。子どもたちは胸の前に腕を水平に掲げ、「ウクライナ、英雄の聖なる母、私の心に宿る…。あなた方、聖なる人々、私の命と喜び」と歌う。政府と親ロシア派反政府軍との戦いが続く中、次の世代の兵士たちは戦いの準備を行っている。8月のこのキャンプには、8歳から16歳の50人の子どもたちが参加し、武器の扱い方や撃ち方を学んだ。彼らは戦闘状況に沿ったサバイバルトレーニングと戦術的な知識も学んだ。今も続く戦いによる死者は、11月までで合計9,700人に上る。


アメリカ大陸 Americas

◆米国 United States
若い住民が木道に座っている。この写真は、2016年7月にアラスカの先住民が暮らす村ニュウトックにて撮影された。米国の北部遠隔地域のほとんどを覆っている永久凍土は、気候変動の影響を受けて溶け続けている。永久凍土が溶けるにつれ、地盤沈下が起こり道路や建物が損傷し、溶けた土壌からは大量の温室効果ガスが放出される。ニュウトックの住民350人は、2013年に移住する予定だったが、地元での政治的な争いで計画は中止となった。村で最も高い場所には小学校があるが、2017年末にはそこも海面下に沈む可能性がある。

◆キューバ/コスタリカ Cuba/Costa Rica
パソカノアスにたどり着いたキューバ移民のカップルが、一時的なシェルターのテントで休んでいる。今年初め、米国へ向かう8,000人ほどのキューバ人が、ニカラグアの通過許可を待ってコスタリカで足止めされた。現在米国の法律には、米国にたどり着いたキューバ人は、在留する権利があるとうたわれている。しかし、ドナルド・トランプが大統領に就任すれば、この権利に異議を唱えることになりそうだ。2月にトランプは、1996年のキューバ人地位調整法に基づいたキューバ人への特別な上陸許可は「誤り」である、とリポーターたちに語った。彼は11月のカストロの死去から数日のうちに、このカリブ海の島に再び制裁を科すと脅しをかけた。

◆チリ Chile
1973年の軍事クーデターの記念日である9月に行われたデモで、機動隊員の目をにらみ付けるデモ参加者。この写真はSNSで広まり、少女の果敢な反抗的態度に、1989年の天安門事件の時に戦車の前に立ちはだかった男性を思い出すというコメントも見られた。しかし2016年チリ人たちは、ほかにもさまざまな理由で町に出て抗議を行った。例えば、学生たちは教育改革を求め、タクシーの運転手たちはオンデマンド配車サービスのウーバーに抗議し、漁師たちは海産物を汚染したアオコの「赤潮」への対策を政府に求め、多くの人々が年金制度について怒りの声を上げた。


南アジア South Asia

◆インド India
再利用可能な物をゴミの中から拾う子どもの写真は、ハイデラバードのゴミ処分場で2016年10月に撮影された。その同じ月、ビジャヤワダの町では行政と議員が膠着状態に陥り、ゴミ回収がストップし、ゴミが町の至る所でうずたかく積まれた。だがこれはこの国のゴミ危機の氷山の一角でしかなかった。インドでは毎日14万トンのゴミが出るが、その多くが埋め立て処分場に運ばれる。回収されるゴミは83%だけで、処理が行われるのはそのうちの29%のみである。1月には、18階分の高さに達したムンバイの埋め立て処分場が火事になり、発生した大量の煙は宇宙からも見えるほどだった。

◆カシミール Kashmir
このスリナガルの病院にいた男性は、警察と抗議参加者の間で起こった7月の衝突で負傷した。カシミールの分離を目指すヒズブル・ムジャヒディンの司令官ブルハーン・ワニがインドの治安部隊に殺された後、カシミールでは暴力と不安定な状態が最悪のレベルに達している。この殺人の結果抗議活動が広がり、インドのザ・タイムズ紙によれば、85人が死亡、1万3,000人の抗議参加者と400人の治安当局者が負傷した。このインド支配地域では7月に夜間外出禁止令が出され、11月現在でもいくつかの地区でその制限が続いている。

◆バングラデシュ Bangladesh
75歳のモイン・ミアッが、なくした所有物を探すためにバナナヤシの幹につかまって水に浮かんでいる。7月と8月、バングラデシュ北部と中部はモンスーンの洪水に見舞われ、数百万人が影響を受けた。少なくとも25万軒が被害を受け、1万7,000軒は完全に流されてしまった。災害によるリスクを、脆弱性と自然災害(台風、干ばつ、地震、洪水、海水面上昇)の発生を掛け合わせて計算する『世界リスク報告書2016』によれば、世界で一番リスクが高い国はバヌアツで、その次は、トンガ、フィリピン、グアテマラと続き、バングラデシュは世界で5番目となっている。


東アジアと太平洋 East Asia & Pacific

◆ソロモン諸島 Solomon Islands
オントンジャワ環礁にあるガダルカナル島のロード・ハウ居住地の住民たちが浜辺に集まっている。この居住地は、高潮や海水面上昇の影響を受けやすく、住民は現在首都ホニアラへの移住を検討している。しかしコミュニティーのリーダーたちは、69の現地語(それに加え、人口の2%しか使っていない公用語の英語と、共通語となっているソロモン英語がある)の中でもオントンジャワ語は2,400人しか使用しておらず、次の世代が先祖代々の土地と無関係な新たな場所で育っていけば、自分たちのポリネシ人としてのアイデンティティーと母語が失われてしまうことを危惧している。

◆スリランカ Sri Lanka
カルピティヤでマングローブに植える苗木を運ぶ自然保護事業の作業者たち。これは、1万5,000ヘクタールのマングローブ林を保護するという壮大な計画の一環だ。汽水域に生えるマングローブの樹木は、土地の保護と生成に役立ち、炭素を吸収して温暖化の影響を緩和する。また、2004年にスリランカの東岸が津波に襲われた際の状況が示すように、自然災害による打撃を和らげる効果がある。それ以来マングローブは保護地域に指定され、樹木を伐採した場合は刑罰を科すことが可能になった。2016年7月マイトリーパーラ・シリセーナ大統領は、スリランカ初のマングローブ博物館を開館した。

◆タイ Thailand
無情な政権である。写真は、7月に撮影されたバンコクにある重警備のクロンプレム刑務所の屋外での運動の時間だ。2016年10月現在、タイの受刑者数はあとわずかで30万人に達するところまできており、人口10万人あたり443人であった(10万人当たりカナダは114人、米国は693人)。受刑者たちは公式には収用定員が合計で21万7,000人となる114カ所の刑務所に詰め込まれている。パイブーン・クムチャヤ法相は7月、政府の麻薬に対する厳格な法律がうまくいっていないことを認めた。また彼は、メタアンフェタミンをカテゴリー1薬物からグレードを下げるとともに、麻薬売人あるいはより一般的な薬物所持で逮捕された者の刑期の短縮を望んでいると語った。


中東 Middle East

◆レバノン Lebanon
11月、人々が待ち焦がれていた雨が降ったレバノン南部で、腐ったオレンジに乗ったカタツムリ。3月にNASA(米航空宇宙局)は、1998年から続く地中海東部の干ばつが引き続きキプロス、イスラエル、ヨルダン、レバノン、パレスチナ、シリア、トルコに影響を与え、状況は過去900年で最悪であるとことを明らかにした。科学者らは樹木の年輪(干ばつの年は幅が狭くなり、水が豊富な年は広くなる)を調査し、現在の干ばつに関しての評価を行った。その結論は、報告書の主要著者ベン・クックによれば、これには「ある種の人間が原因となっている気候変動の影響が見られる」という。

◆イエメン Yemen
フーティー信奉者の3月集会で、テントの隙間から様子をうかがう女性。集会は、イエメンの首都サヌアにサウジアラビア主導の空爆が行われていることに対して、抗議する目的で開かれた。フーティーの情報源がアル・アラビヤ・ニュース・チャンネルに語ったところによれば、初めてとなる女性の民兵部隊が9月に結成されたという。イエメンの女性は長い間、差別と暴力に直面してきたが、内戦は彼女たちをよりぜい弱な立場に追い込んでいる。UNFPA(国連人口基金)は、2016年1月から9月の間に、性別に基づく暴力が8,031件報告されたと伝えている。だが、女性がそのような暴力を報告することを妨げる社会的な規範が存在するため、実際の件数はずっと高いと考えられる。

◆パレスチナ Palestine
忍者スタイル。2014年にイスラエルによって破壊されたガザ地区のビルのがれきの前で、パレスチナ人の若者が手に刀を持ってジャンプし、その技能を披露している。地元の武術クラブで2年間の訓練を受けた若者たちがチームを作り、定期的に公演を行うことを決めた。彼らは、有名になっていつか誘いを受けて国際的なコンテストに参加することを望んでいる。2016年、パレスチナの若者の失業率は42%に達しており、多くの若者が貧困に陥り挫折感を抱えている。

この記事は、The Unreported Year 2016の翻訳です。


  1. 2017/01/22(日) 23:25:23|
  2. 国・地域

【翻訳記事】世界の国のプロフィール:南スーダン


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サルバ・キール(左)とリエク・マーシャル
Day Donaldson(CC BY 2.0

ジュバ空港からの道(この国では数少ない舗装路のひとつ)の両脇には、荒廃した建物が続く。その建設途中や崩れ落ちた建物は、2011年に多大な努力の末に成し遂げたスーダンからの独立後の希望満ちあふれた日々の名残である。かつてはナイル川沿いの小さな交易拠点のひとつだった首都ジュバも、現在はほこりっぽい町が不規則に広がり、国連スタッフ、軍、隊列を組んで走る自動車があふれる場所になっている。顕著なインフラ不足(首都以外ではより目立つ)は、長い間無視されてきた歴史を物語っている。

英国は1956年のスーダン独立に際し、文化、民族、言語、宗教の点ではっきり異なる南部地域に自治の約束をしたが、実現はできなかった。このことにより、不可避な衝突の扉が開いた。その後、南部地域の自治権を認めた1972年のアディスアベバ合意によって、ささやかな安定への扉が開かれた。しかし1983年、この合意は崩壊し、再び敵意がむき出しとなり、ジョン・ガラン率いる反政府勢力「スーダン人民解放軍(SPLA)」の結成につながった。

国際社会の強力な圧力によって2005年に南北包括和平合意(CPA)が結ばれるまで、ゲリラとの間ですさまじい戦いが続いた。このCPAでは、南部の分離をはかる国民投票の実施が約束された。CPA締結の数カ月後、ジョン・ガランがヘリコプター事故で死亡して副大統領だったサルバ・キールが後を継ぎ、和平合意は危機に直面した。しかし、欧米諸国からの圧力によってCPAは予定通り進み、2011年には南部スーダン人の98.8%が独立に賛成票を投じた。

だがCPAは、2つの問題を完全には解決しなかった。ひとつは、北部と南部の間の厳密な国境の確定(争いが続く石油が豊富なアビエイ地区を含む)。もうひとつは、南部の油田の利益の南北間での分配についてである。独立によって南スーダンは、分離前のスーダンの油田の4分の3を支配下に置いた。しかし油田は内陸にあり、精製施設と輸出拠点があるのはスーダン側だった。スーダンは途方もない通行料を要求し、南スーダンはそれに抗議するため、独立から6カ月後に石油生産停止という捨て身の最終手段に打って出た。

独立時、この新しい国の予算の50%以上を軍事予算が占めていたが、その支出はSPLAを構成する民兵組織(民族ごとに分かれてその関係は複雑)の忠誠を保つために必要なものだった。15カ月間石油収入が途絶えたキール大統領は、当時主導権争いをしていたリエク・マーシャル副大統領など政敵を押さえ込むことができなくなった。キールとマーシャルはそれぞれディンカ民族とヌエル民族出身で、それぞれの民族内では最有力者だった。そして彼らの争いが影響して2013年12月には内戦が勃発した。

どちらの民族も相手民族に対して毎日のように残虐行為を行った。遅々として進まない和平交渉だったが、2015年8月には貧弱な和平合意につながった。その内容には権力の分担に関する提案が含まれていたが、実施まで9カ月以上かかった。しかし2016年7月、ジュバの町で再び激しい戦闘が勃発し、平和維持への期待は打ち砕かれた。

何万という人々が死亡し、230万人が住まいを追われただけでなく、独立以来築いてきたささやかな発展までもがこの衝突によって破壊された。世界の原油価格の下落とパイプラインの関税に加え、石油企業への負債で生じる利子、そしてドナーからの支援が人道活動へ配分し直されたこともあり、政府の歳入はほとんど無きに等しくなった。

この国は現在、政治的、経済的に崖っぷちの状態にある。ハイパーインフレーションに加え、ふくれあがった軍隊に間もなく支払いが滞るであろう軍事費のこともあり、さらなる不安定化は避けられない。地域仲裁活動の専門家であるベルナール・スヴァは、「戦争の前、地域コミュニティーがしっかりしていたが、現在その地域コミュニティーは破壊されてしまった」と述べた。南スーダンの歴史は紛争と貧困の歴史だが、その未来はこれまで以上に厳しいように思える。◆

by エレノアー・ホブハウス

データ   170101Flag_of_South_Sudan.jpg

指導者:サルバ・キール大統領
経済:1人当たりの国民総所得(GNI)は790ドル(スーダン1,710ドル、英国43,430ドル)。独立前の2010年は1,060ドルだった。
通貨単位:南スーダンポンド(SSP)
輸出:南スーダンの輸出のほとんどを占めるのが石油で、GDP(国内総生産)に占める割合は約60%。しかし国民のほとんどは、農業や家畜飼育で自給中心の生活を送っている。石油価格の下落によって大打撃を受け、通貨は暴落し、インフレは300%に達した。
人口:1,230万人。人口増加率は年3.0%。現在人口は2000年の倍になっている。人口密度は1平方キロメートル当たり21人(英国267人)。
保健:1,000人当たりの1歳未満児死亡数(乳児死亡数)は60人(スーダン48人、英国4人)。衛生的な水を利用できているのは人口の55%で、適切なトイレを利用できているのは15%のみ。妊産婦死亡の生涯リスク[訳注1]は26人に1人(英国5,800人に1人)。HIV感染率2.5%。
環境:国土の大半は乾燥地帯で、過放牧による草地の劣化に苦しむ。国を貫いて流れる白ナイル川は季節によって川幅が広がり、広大な湿地帯を生み出す。国民1人当たりの二酸化炭素排出量は0.1トンである。
民族:最大で64の民族が確認されている。最大の民族はディンカ民族で、人口の35%近くを占める。一方ヌエル民族は人口の16%あまりを占める。どちらの民族もより大きなニロティック系民族グループに属し、そこにはより小さな遊牧民族も含まれる。アザンデやバリなど南部では定住農業が行われている。
宗教:キリスト教徒61%、イスラム教徒6%、伝統的なアフリカの宗教(複数)33%。
言語:公用語は英語。アラビア語は広く使われている(首都で使われるシンプルな形式の「ジュバ・アラビア語」も含む)。ディンカ、ヌエル、バリ、ザンデなど、地域言語が約80使用されている。
人間開発指数[訳注2]0.467で、188カ国中169番目(スーダン0.479、英国0.907)。

訳注1:妊娠や出産時、あるいはそれに関連する病気で死亡する生涯にわたるリスクのこと。妊産婦死亡率は1回の出産に対するリスクとなるため統計の取り方が異なる。
訳注2:国連開発計画の「人間開発報告書」で使用されている、各国の人間開発の度合いを測るための経済社会指標。0から1で示され、1に近いほど個人の基本的な選択肢が広く人間開発が進んでいるとされる。

NI五つ星評価
(南スーダンは今回が初めての評価)

とても良い ★★★★★
    良い ★★★★
    普通 ★★★
    悪い ★★
   ひどい ★

所得配分 ★
人口の半分近くにあたる510万人が食料の支援を必要としている。その一方でわずかなエリートが、国の資源や財産をかすめ取る人間達とつながって莫大な財産を築いていると言われている。

平均寿命 ★
56歳(スーダン64歳、英国81歳)。世界の順位では下から11番目。

女性をめぐる状況 ★★
政府上級職と議会では、女性の割合が25%として決められている。しかし昔からの家父長制度が根強く、学校に通っている女児は33%にすぎず、先日の衝突では女性に対する暴力が劇的に増加した。

自由 ★
報道の自由インデックスでは180カ国中140位で、過去2年間で21も順位を落とした。2016年6月に起こった学生の抗議活動に対して、治安部隊が激しい弾圧を行った。しかし一方で「2016年NGO法」には、制限的な条項や政府の監視を牽制する内容も含まれている。

識字率 ★
推定で27%。6~17歳の子どもたちの70%は学校に通ったことがない。

セクシャルマイノリティー ★★
男性間性交渉は違法で、10年の禁固や懲役となる(これは、スーダンの英国植民地時代の法律がもとになっている。女性間に関しては言及がない)。社会では差別が広がっている。

NIによる総合評価

政治 ★

ハルツームのスーダン政府との数十年にわたる戦争の間、政府は自らの行動に関して説明責任を果たしてこなかった。この姿勢が新しい政府にも引き継がれている。世界で最も新しい国は、慢性化した腐敗に悩まされ続けている。身の毛もよだつ恐ろしい内戦は、国の資源や資金を支配する目的で行われている、ライバル民族のエリートたちが後押しするネットワーク同士の主導権争いに端を発している。衝突において両陣営は、民族間の分断を積極的に利用し、どの勢力も裁きを受けることなく今も悪事を働いている。そして政府は、悪化する経済的、政治的危機に対して、市民の自由を制限するという対応をとっている。


2016年12月号NI498英国版から「Country Profile: South Sudan」の翻訳です。


  1. 2017/01/01(日) 17:31:13|
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