NIジャパンブログ

【翻訳記事】「平和には女性の貢献は不可欠です」

7295675940_b18eb97734_z.jpg
校庭を歩くパキスタンの少女たち(資料画像)
DFIDCC BY 2.0


何年にもわたるタリバンからの脅迫。しかしそれは、パキスタンに平和をもたらすというシャワナ・シャーの意志を、より一層強固にしただけだった。

「タリバン化」が行われた間、そしてそれに対する軍事作戦により、パキスタンでは多くの人々が殺され、避難民となり、膨大な人権侵害が発生した。

人権活動家は特にターゲットにされ、民兵組織や他の武装グループの手によって暴力的な攻撃を受けた。

24歳の平和と人権の活動家、シャワナ・シャーもタリバンから脅迫を受けたひとりだ。しかしこの若い活動家は、そんな状況にもめげず、平和に向けた取り組みと女性の権利を守る努力を続けた。

シャーは語る。「タリバンの脅迫も、私をくじくことはできませんでした・・・。実際には、女性と平和のために活動を続ける私の意志を強固なものにしてくれました」

「Da Hawwa Lur(イブの娘の意)という私たちの非営利組織もタリバンから脅迫を受けました。しかしその際は、職員を守るために目立たないようにしました」

シャーは、ジェンダーに基づく暴力の被害者に対し、法的、心理的な支援を無料で提供する目的で2002年に設立されたこのDa Hawwa Lurの共同創設者である。この団体は2012年に公式に登録され、政治における女性のリーダーシップの促進に加え、平和活動も行っている。彼女は2015年5月、カイバル・パクトゥンクワ州(パキスタンの中でも非常に保守的な地域)で「働く女性ユニオン」を結成した。このユニオンは、在宅仕事や家事仕事に従事する300人の女性に対し、自分たちの権利のために闘うプラットフォームを提供するものだ。

「タリバンからの脅威に加え、特にアフガニスタンとの国境地帯にあるトライバルエリア(部族地域)では、コミュニティーからの抵抗にも直面しています」とシャーは説明する。彼女と活動チームは、この抵抗を乗り越えるために部族地域の住民を雇っている。彼らの協力を得ながら活動家たちは、平和構築から紛争予防や紛争解決までにいたる女性の貢献に「コミュニティーが気づきやすくなる」よう後押しをしている。

「何らかの影響を受けたり、命を脅かされたり、嫌がらせや脅しを受けたりといったことは、人権活動家の仕事にはつきものです」と彼女は語り、そうとはいえと言いながら次のように続けた。「パキスタンの状況、特にカイバル・パクトゥンクワ州の状況は厳しいものがあります」

シャーは、マララ・ユスフザイ[訳注※]を例に挙げた。マララはその活動で目をつけられ、2012年にカイバル・パクトゥンクワ州のスワート地区でタリバンに銃撃されたのである。この州では、平和と人権に取り組む活動家が相変わらず脅威にさらされている、と彼女は述べた。
※訳注:子どもの教育を受ける権利と抑圧への抵抗のために活動していた。タリバンに銃撃されたが九死に一生を得て、17歳という最年少でノーベル平和賞を受賞した。

「私は、平和への対話、紛争解決と宗教に対する寛容性を若者に意識づけることを通じて平和を促進しています」。さらに彼女は、2008年から2009年にかけて「平和キャンペーン」を行い、少女たちも含む500人の若者に紛争解決と宗教への寛容性に関する研修を行った、と付け加えた。

シャーはさらに、この社会において最もぜい弱な立場にいるのが女性と少女であり、カイバル・パクトゥンクワ州でタリバンとの戦闘状態が続いていた時、その衝突によって彼女たちがあまりにも大きな影響を受けた、と語った。

2016年10月にパキスタンのNGO「人間開発のための民主的委員会」が行った『パキスタンの女性人権活動家:リスクと能力の評価』という調査によれば、女性人権活動家の2人に1人が個人的に何らか脅迫を受けているという。

この調査(この種の調査は初めてだった)は、2,000人の女性人権活動家を調査し、彼女たちが直面している困難とリスクについて、そしてそれらに対応する能力について評価したものだ。それによれば、人権活動家が脅威を受ける可能性はパンジャブ州が最も低く、カイバル・パクトゥンクワ州とバルチスタン州が最も高くなっている。内容としては、嫌がらせ(34%)、命への危険(23%)、仕事の妨害(29%)、自宅や家族への脅迫(12%)、その他(2%)となっている。また、仕事中に脅迫を受けたことがある女性人権活動家が48%に上ることも分かった。

2017年3月、国際人権NGOのアムネスティ・インターナショナルは、人権活動家への脅迫、攻撃、殺人につながる中傷キャンペーンについて、パキスタンのチョードリー・ニサル・アリ・カーン内務大臣に書簡を送った。その同じ月の国際女性デー2017の前日、パキスタン人権委員会は声明を出し、人権を守る活動に携わる女性たちの役割を認め、差別、嫌がらせ、攻撃から女性たちを守るよう当局に呼びかけた。

その声明の中で同委員会は、「女性の人権活動家は他の人権活動家と同じリスクにさらされているが、女性であるがゆえに暴力に弱く、ジェンダーに基づく暴力に特にぜい弱だ」と述べている。

シャーは、女性の積極的な参加が増え、飾りではない本当の女性代表が増えていかなければ、平和は続かない、と述べる。世界経済フォーラムの2016年版『世界男女格差報告書』で男女平等指数が下から2番目のパキスタンでは、このことは特に当てはまるだろう。

シャーは言う。「女性は、社会のきわめて重要な部分を担っていると私は思っています。女性は、最も優れた平和構築者で、社会に好ましい変化をもたらすことができるのです」

彼女は、「仲裁や平和構築プロセスには、平和の仲介者としての女性の貢献が不可欠です」と言い、国連の平和維持活動のうち5つの活動で女性がトップに就いていることを付け加えた。

「私は、平和を促進し衝突を防止するという仕事の中で、社会的、文化的な障壁にぶつかりました。しかし、困難や障害に直面するたびにそれは新しい機会となり、私は多くのことを学びました・・・。粘り強い努力によって、これまでの困難を乗り越えてきたのです」

政府、司法や警察当局、シャーのような平和・人権活動家、そしてその他の関係者の活動によって、「戦闘状態にあったカイバル・パクトゥンクワ州にも平和が戻りました」と彼女は言う。

「衝突の影響を受けた地域の若者たちが私たちの研修を受け、過激化した地域社会を軟化させてその状況から救い出すことができました。多元的な会話、そして異なる宗教間での協調が、他の信仰に対するオープンな姿勢を人々に認識させたのです」とシャーは述べた。

シャーは、女性への暴力の根絶と平和促進の活動が認められ、2016年に米国ケンタッキー州ルイビルで国際的なモハメド・アリ人権賞を受賞した。彼女は「国際人道主義と倫理的ユース国際協会」のアジア作業部会メンバーでもあり、また国際開発分野(具体的には女性の権利と平和促進に対する貢献)でEU(欧州連合)からその功績を認められている200人の女性のひとりでもある。


NIブログ記事‘Women’s contributions to peace are essential’の翻訳です。




  1. 2017/08/28(月) 07:54:26|
  2. 暴力・平和・人権

【翻訳記事】狙われる環境活動家(メキシコ)


170507Baldenegro.jpg
殺害されたイシドロ・バルデネグロ・ロペス(一番右)
画像をクリックするとゴールドマン環境賞のページが開きます


ほとんどのメディアは、メキシコで増加している麻薬関連の殺害の中でも、耳目を集める大量殺人に注目する。例えば、ゲレロ州で43人の教育実習生が「行方不明になった」事件や、観光客が不幸なことに銃撃戦に巻き込まれた事件だ。このうちの後者としては、普段は平和なユカタン半島のプラヤデルカルメンで1月に開催された大規模な国際電子音楽祭のバーにおいて、5人の無関係な人々が射殺されたという事件があった。しかしあまり知られていないところでは、活動家、特に環境活動家の計画的殺人が、ほとんどの場合は目立たない地方で起こっている。このような殺人を計画してカネを払った連中に、裁きが下ることはない。

1月にまさにそのような事件が起こった。犠牲者は、メキシコ先住民の活動家で、ゴールドマン環境賞[訳注:環境保護に功績のあった草の根活動家に送られる賞]受賞者のイシドロ・バルデネグロ・ロペスである。彼は、出身地のチワワ州のシエラマドレ地域で、古代の森林を違法伐採から守る活動を行っていた。51歳のバルデネグロは、南チワワの遠隔地にある叔父の家を向かう途中に銃で殺害された。ぶれることなく環境キャンペーン活動を行っていた彼は、その活動のために殺害予告を受け、地元から他の場所へ避難したこともあった。1980年代には、今回と同じ森林伐採の脅威に反対していた彼の父親が暗殺された。ガダルーペ・カルヴォ地域では、昨年このほかに4人の活動家が殺害されている。

栄誉あるゴールドマン環境賞は、南の国々でのリスクの高い草の根レベルでの組織化を行っている人々に贈られることも多い。彼らが行っているのは、資源開発経済を支配する者たちが起こす略奪的開発行為から、自然環境の搾取を防ぐための活動だ。近隣のホンジュラスで別のゴールドマン環境賞受賞者であるベルタ・カセレスが、物議をかもしているダム開発に反対していたため殺されてから、まだ1年もたっていない。明らかになっている世界の環境活動家の殺害は、75%近くが中南米で起こっており、2014年以来、116人が殺されている。◆

by リチャード・スイフト

2017年4月号NI501p9 Murders most foul (MEXICO) の翻訳です。



  1. 2017/05/07(日) 10:11:00|
  2. 暴力・平和・人権

【翻訳記事】粘り強い革命(シリア)


170408resilient.jpg
(画像をクリックするとNIの英語記事のページが開きます)

※2015年9月号「Syria's good guys(立ち上がったシリア人による市民活動の今)」からの掲載

シリアで蜂起が始まった時、過去数十年見られなかったレベルで市民社会が活発化した。ダニエル・アダムスが、現在の破滅的状況にもかかわらず続く市民社会の活動を報告する。


シリアの活動家グループが、2011年12月に首都ダマスカスの坂道に2,000個のピンポン玉を放った。そのピンポン玉の一つ一つには、自由という言葉が書かれていた。

革命的なグループが集まった組織「フリーダム・シリア・デイズ」は、シリアが戦争状態に陥って動揺し、蜂起当初の象徴である非暴力かつ突破力のある精神を維持するのに苦心している。彼らは、市民の不服従の力でアサド政権をまひさせることにこだわっており、ゼネストを主導し、店を休業させ、交通網を混乱させた。そして、クレジットカードに接着剤を塗って現金自動預け払い機(ATM)に入れたり、ダマスカスの噴水に赤いインクを流し込んだりもした。活動家たちは軽い気持ちで実行しているのではない。それは、創造的な抵抗活動のために活動家が拷問され殺されていることを知っているからだ。ただ、彼らが当時知りえなかったことは、ピンポン玉が放たれる一方で、アサドがイスラム教民兵とされる囚人たちをシリアの刑務所から解き放ったということだ。

政府はこれを、表向きは一連の「改革」政策に含めた大赦[訳注:恩赦の一種で、有罪判決を受けた者はそれを無効とし、未決の者は検察による起訴を無効にすること]とした。しかし、多くのアナリストが考えるアサドの真意は、市民の蜂起をイスラム教徒による反乱にすり替えることである。そうすることにより、革命を粉砕することと、シリア政権交代という米国の思惑を妨害することの両方を正当化できる。(1)

シリアの革命家が立ち上がるまでに長い時間を要したが、彼らがどう猛なイスラム民兵組織によって圧倒されてしまうまでにはまだだいぶ時間があった。しかし結局、アサドの選択的な囚人の釈放、平和的な抗議活動に対する軍の残忍な弾圧、外国勢力による干渉(NIのp15に掲載の記事‘Proxy War’を参照)がシリアを全面的な内戦に追いやっていくことは間違いなかった。

2013年には、イラクを悩ましてきたスンニ派のジハード運動家たちが国境を越えて広がり、母体となった組織よりもずっと暴力革命寄りで執念深いISIS(イスラム国)へと変化していった。アサドは、西側から高まる警告を受け取りながら、わくわくしていたに違いない。彼は、シリアはテロリストをうまく扱っていたし、自らの政権が狂信的行為への唯一防波堤なのだ、と常々述べていた。2014年までには20万人が死亡し、シリアは廃墟と化し、アサドの言葉はもっともらしく響き始めた。

 粉々になった恐怖

シリアを炎上させるというアサド政権の意図は捨て身の戦略ではあるが、不合理なものではない。しかしながらアサドは、聖戦主義者による暴動の行く末を恐れながらも、ピンポン玉活動家を生み出した非暴力による蜂起をもっと恐れていたようだ。

彼が実際に恐れていたのは恐怖の弱まりだ。恐怖は、シリア人の言論と手腕と想像力を40年間にわたり封じ込めてきた。アサドのシリアをひとつにしていた結合剤は、恐怖だったのだ。現在、蜂起がもたらした圧力により、その結合剤は粉々になった。

恐怖が弱まるにつれシリア人は、何世紀にもわたって沈黙させられてきた声に気づいた。彼らは、アサドの物まねをしてからかい、こびへつらって盲従する取り巻き連中を笑いものにした(NIのp20~23に掲載の革命アートのギャラリーを参照)。彼らは、何年も人々を脅かしてきた人物像を引きずり下ろし、普通のシリア人男女が希望を求める声を旗印に掲げた。中でも最も重要なことは、国に逆らう形でシリア国民のアイデンティティーを口にし始めたことだ。アサド政権は長い年月をかけ、シリア愛国主義という織物の中にアサド崇拝を織り込んできた。この織物が、突如として全体的にほころび始めたのである。デモ参加者たちは一発の弾を撃つこともなく、アサド支配の心理的土台を打ち壊したのだ。彼らを改革や賃上げでなだめても、今さら手遅れである。「おまえのパンなどいらない」と群衆が叫ぶ。「我々は尊厳がほしいのだ」

 立ち上がったばかりの市民社会

どの国でも、政権がその地位から引きずり下ろされる時、あふれ出るエネルギーは市民社会に注がれる。これまでシリアでは、活発化することが絶対に許されなかったセクターである。自由を求めてデモ行進した人々は、現在病院や学校を運営したり、違法行為を記録したり、ニュースを発信したりしている。中には地方議員になった人や、ジャーナリストの研修、あるいはトラウマを負った子どもの面倒を見るプロジェクトを立ち上げた人もいる。これらの率先した取り組みも、戦闘で停止させられたり、資金や経験が不足して行き詰まったりすることもしばしばだ。しかし、いかなる欠点があっても、シリアの人々の勇気によって、革命的な運動に火がついたのである。

この立ち上がったばかりの市民社会に対するアサドの攻撃は、シリア戦争の悲劇の中でもおそらく最も嘆かわしい一幕である。抵抗勢力が支配する町では、爆弾が学校や病院めがけて雨のように降り注ぎ、数千人の市民が殺され、数百万人が避難を余儀なくされている(市民による人道救援活動に関しては、NIのp24~25に掲載の記事‘Rushing towards death’を参照)。政権が支配する地域では、独自の考えが行き過ぎた人々は、誰であれ治安当局によって拘束される。インターネット上の情報の自由を目指してキャンペーンを行ったウェブ開発者のバセル・ハルタビル、あるいはシリアの良心の囚人[訳注1]を擁護した弁護士のハリール・マトゥーク、またはダマスカスの赤新月社でボランティアをした人道主義者のラエド・アルタウィルのようにだ。これら3人の男性は2012年に投獄されたが、それ以来消息は不明である。

彼らのような悲劇的な日々を送っている人々がどのくらいに上るのか、それは誰にも分からない。その数は多ければ15万人ほどになるかもしれない。彼らが耐えているその状況は、多くの人々には想像もできないものだ。刑務所の中で行われていることの一端が世界で初めて明らかになったのは、2014年に法廷写真家が5万5,000枚の写真を入れたメモリーを持ってシリア軍から逃れてきてからである。その写真には、飢餓、パイプによる殴打痕、タバコを押しつけた痕や酸によるやけど、電気ショック、指の爪をはがした痕、首を絞めた痕、刺し傷などが残る1万1,000あまりの死体が写っていた。

より人道的で開かれた社会の構築に最も貢献する人々の中で、あまりにも多くの弁護士、ジャーナリスト、医師が逮捕され、その人材が一部奪われてしまった。その他多くの人々は、シリアを脱出した。2011年と2012年のころの楽観的な見方は、完全なる破壊によって押しつぶされてしまったのである。

 見捨てられた英雄

以上のような状況にもかかわらず、シリアの非暴力による抵抗は現在も続いている。そのエネルギーのほとんどは必要にも迫られ、がれきから負傷者を救出したり、診療所の物資を絶やさないようにしたり、包囲された地域に食料を届けたりなどの緊急支援に向けられている。しかし、このような状況にあっても、自由な報道機関の創設、女性への教育、過渡期の司法制度的な概念といった、国家建設のための長期的な取り組みをする活動家がいる。「ニュースで流れるのは、流血と破壊ばかりでしょう」、とある女性が2014年に国際人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチに語った。「あなたには、そんなニュースに隠れている部分は見えません。そこには、平和裏に物事を進める市民グループがいるのです。私たちは今もそこにいます」

彼らのような活動家を無視し、ISISのおぞましい魅力にとりつかれたメディアは、テロとの戦いというアサドの筋書きに沿った報道をし、シリアの民主主義者に関する話は無視している。そしてシリア人のことを、何もできない被害者で、イスラム原理主義者と専制君主との血みどろのゲームに巻き込まれているという構図で報道している。人々が始めた闘いとその犠牲を顧みれば、彼らがどれほど落胆させられているか想像するのも難しい。

現状では、がれきの中から安定した活力ある民主主義が生まれつつあるというような甘い見方をする者はまったくいない。この国の半分の人々は避難を余儀なくされ、非常に多くの人々が、完全な回復は難しい苦しみを抱えたり行為に関係した。さらには、人々は世代にかかわらず、シリア国境沿いに集まる難民キャンプでトラウマを抱え、読み書きもできないまま育っていくのである。

しかし、甘い見方よりも悪いことは、蜂起当初にとても力強く掲げた希望をしぼませることなく保ち続けるために今も闘っている勇気ある男女を見捨てることだろう。国際社会が依然として行っている彼らを無視する行為は、彼らとの連帯を奪うことや、資金提供や研修の実施を制限すること、そして間違いなくシリアの将来に関する国際交渉の舞台おいて彼らの声を排除することにもつながるのだ。

今月号では、誌面の都合もあってわずかな事例しか取り上げられず、多くの英雄的な人々やその他大勢の知られていない人々を紹介することもできない。このような制限はあるものの、シリアにおける最も優れた勇敢な革命家の中から数人の声を知り、それを広めていくよう今回は試みた。彼らに、国際社会はどんな支援ができるのかと尋ねた時、その多くは口をそろえたように一つの答えを返した:シリア人に必要なのは、アサドの樽爆弾[訳注2]による爆撃から人々を守るための国際的強制力のある飛行禁止区域だ。

彼らの声はこの明確な回答以外にも、シリア革命の当初からの特徴であった人道的、創造性、想像力を示すものである。ジャーナリストのマゼン・ダーウィッシュは、ダマスカスの刑務所から密かに持ち出された手紙に書いた。「シリアの人々は、再生の宿命を背負っており、尊厳、自由、正義に基づいた国を作る能力がある」。これは、今月号に寄稿した人々やインタビューに答えた人々の誰もが示していた見解だ。さらに彼らは、シリア人はISISカルトによる死を受け入れているのだろう、あるいは独裁者の下で暮らす方がより良い生活が送れるだろう、といったいかなる思いつきにも強い非難を浴びせる。◆


(1)非暴力の活動家を獄中に残し、数知れないサラフィー主義の聖戦士を自由にするというシリア政府の選択的な恩赦については、"From Deep State to Islamic State - the Arab Counter-Revolution and its Jihadi Legacy"(Jean-Pierre Filui著)のp200~205と、"ISIS - Inside the Army of Terror"(Michael Weiss&Hassan Hassan著)のp144~152を参照のこと。

訳注1:思想や信条、人種、信仰、性的指向などを理由に投獄されている人々。世界の良心の囚人の状況に関しては、人権NGOのアムネスティが声明を出したり(下記ウェブサイトのトップページの「人権の最新ニュース」を参照)、政府に解放を働きかける活動をしている。
http://www.amnesty.or.jp
http://www.amnesty.or.jp/get-involved/act/team/prisoner_of_conscience.html

訳注2:樽のような容器に火薬、燃料、金属片などを入れた爆弾。ナパーム弾のように火災を起こしやすく影響範囲が広がり、市民が巻きこまれることが多い。最近のシリアでの使用は次のニューズウィーク日本版を参照のこと。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/05/post-3641_1.php


2015年9月号NI485p10-12 A resilient revolution の翻訳です。c485-100.jpg



  1. 2017/04/08(土) 02:03:00|
  2. 暴力・平和・人権

【翻訳記事】狙われる人権活動家


20170331ヤルムーク
食料配給を待つ人々、2014年1月下旬ヤルムークにて。
Jordi Bernabeu Farrús (CC BY 2.0


シリアの内戦において、政府、反政府のどちらの陣営からも繰り返し襲われるアブドゥラ・アル・カティーブ。しかし、彼はそれでも声を上げることをやめない。このパレスチナ系シリア人の活動家が、エリン・キルブライドに語ったこととは。

アブドゥラ・アル・カティーブは、彼の恋愛生活について質問しないジャーナリストは信用できないと言った。私が彼にインタビューしたのは月曜日の昼だが、彼はその週すでに新聞6社の取材に対応し、ヤルムーク難民キャンプでの人権活動についてインタビューを受けていた。話した内容は、戦争、パレスチナ人の権利、殺害予告、彼の現在の活動がすべてで、彼に恋人がいるのかどうか、誰からも一度も質問はなかったという。

私たちの会話の最後に彼は言った。「質問され、それに答え、次の質問がきて、それに答える。私が人を愛するのかどうか、気にしている人はいないようですね」

彼のこれまでの劇的な日々を振り返れば、ジャーナリストたちが彼の個人的な生活について聞きもらした理由も容易に理解できる。2014年と2015年ヤルムークが包囲された時、メディア、人権団体、援助関係者は、15万人の飢えた難民キャンプ居住者に関して必死に情報を求めていた。パレスチナ人の人権擁護活動家アブドゥラは、その主な情報提供者のひとりとなったのだ。

包囲の前、そしてつまりシリア内戦が始まり、ISISが現れ、世界がヤルムークに関心を持つようになるずっと前から、アブドゥラはシリアのパレスチナ人コミュニティーの維持に奔走する多くの若い活動家のひとりとしてキャンプ内では知られた存在だった。

現在27歳のアブドゥラは、パレスチナ人青少年サッカークラブに9歳で加入したことを自身の積極的な行動主義の原点として挙げた。彼は、自分たちは存在しているだけで迫害を受けていたため、コミュニティーを育んでいくこと自体が抵抗の実践になる、と語った。

彼はいくつかの青少年開発組織を立ち上げ、地元のサッカーチームのコーチをし、彼が住む近隣で行われた食料配給の国際支援活動を手伝い、国際監視員が閉め出された時には人権報告を作成した。

バシャール・アル・アサド政権への革命の初期からそれを支持し、積極的に活動していたアブドゥラは、2回以上命を落としかけた。彼は、政府だけでなく、ヌスラ戦線やイスラム国(ISIS)といった武装勢力にも何度も命を狙われた。

ISISのメンバーは、彼は神を冒とくし、「世俗的で神を信じないプロジェクト」を率いているとして、ダマスカス中のモスクで彼に反対する活動を行った。2015年4月、ヤルムーク全体がISISの支配下にほぼ落ちかけた時期、民兵が彼の家を急襲した。アブドゥラはなんとか捕まらずに脱出できたが、それは2カ月足らずの間に起こった2度目の誘拐未遂だった。

2016年6月には、彼は危うく殺されるところだった。ISISは後に犯行声明を出したが、その時彼は胸を撃たれて危険な状態となり、それ以来身を隠した。

問題はISISだけではなかった。銃撃を受けてから1カ月もたたないうちに、地元のシリア・イスラム委員会から出頭するよう連絡があった。その委員会は、難民キャンプの西に位置する反政府勢力支配下の町ヤルデルにあったが、当局者らはヤルムーク子どもプログラムで「女児に水泳を教えた」ことに憤慨していた。

暴力的、抑圧的なグループは、ヤルムークや全国で活動するアブドゥラのような人権擁護活動家たちが平和的な活動を通じてコミュニティーを守り、支援し、殺人者に対してはその責任を追及しているため、彼らを抹殺しようとしていた。

ヤルムーク難民キャンプが包囲されて人々が飢えた時、アブドゥラは食料生産のためにコミュニティー菜園プロジェクトを立ち上げた。民兵組織が兵士にする子どもを集めた時、彼は社会心理学的な支援をして子どもたちの家族に寄り添った。人権組織がISISの残虐な振る舞いを調査しにキャンプ内に入れなくなった時、彼は写真、音声、報告を国際ジャーナリストに送る手はずを整えた。

ヤルムークで20年近くにわたって活動してきたスキルをどのように身につけたのか尋ねた時、彼は単純に次のように述べた。「私たちはパレスチナ人です。生き延びていくことに、とても、とても長けているのです」

数万人に上るヤルムークの住人の大半は、1948年のイスラエル建国により勃発した戦争で故郷を追われたパレスチナ人の子孫である。シリア内戦当初から、ヤルムークは何度も爆撃され、包囲され、化学兵器による攻撃を受けた。そして今度は、故郷からここにたどり着いたパレスチナ人難民の2世、3世が追い立てられたのである。

現在、にわか作りの難民キャンプがヨーロッパのあちこちにできているが、どれがパレスチナ人のキャンプかは、彼らの言葉のアクセントを聞かなくても見分けることができるだろう。ギリシャの難民キャンプで携帯電話充電ステーションを作り、親類の子どもたちに少額の使用料を徴収させていたのがパレスチナ人たちである。

彼らはまた、並外れた活動家だ。

アブドゥラは語る。「人々を思いやる場合、負うべきことは全体に及びます。もし誰も道路清掃をしなければ、私が道路を掃除します。爆撃の後に火事になって誰も消火しなければ、私が消火します。住民が直面する危険について誰も報告しなければ、私が報告の書き方を習う必要があります。それは私たちの義務です。革命的な義務、宗教的な義務、住民としての義務なのです」

アブドゥラは、むしろ活動家とは言えないような活動を多数行っている。彼は教えることが大好きで、ヤルムークの青少年サッカーリーグでコーチをしていた時は最高にうまく教えられたと言う。

援助スタッフは面白いことはあまりなく、わくわくすることもめったにない、と彼は述べた。食料配給はきつくて寒く、シリアの冬は特にそうで、どの家族に米を渡すのかを決める役割になった時、怒りの矛先が向けられやすくなるという。

アブドゥラは、シリアや他の紛争地帯では、活動家と人道支援スタッフの境界ははっきりしていないのではないかと感じている。「難しい点です。『いいえ、私はそれはやりません。私は人道支援スタッフではなく、人権活動家だからです』とは言えないのです。何でも対応するように準備をしておく必要があります。もしそうでなければ、活動家は務まりません」

もし、政府あるいは武装勢力が、民間人を兵糧攻めにしようと考える場合、食料を迅速に人々に配給する人道支援スタッフは、難民キャンプで最も目立った活動家になる。2015年にISISがヤルムークを占領した時、ISISがアブドゥラの暗殺を公に呼びかけるようになるのに1年もかからなかった。彼はこのことについて、外国メディアと連絡しながら行われていた彼のコミュニティー食料プログラムが大きな要因になっていると考えている。

アブドゥラがとても強調していたのは、ほかにもたくさんの人々が彼のように取り組んでいるということだ。6年にわたりシリアの活動家たちは、シリアで起こっている戦争と人権侵害に関して最も洞察に富んだ決定的な報告を提供してきた。それは活動家にとって、しばしば身を危険にさらす行為である。彼らはその活動が原因で拘束されたり、拷問されたり、行方不明になったり、殺されたりした。包囲されたコミュニティーと戦時下の国においては、人権擁護活動家がより重要な命を救う役割を担う。

2016年の終わり、反政府勢力最後の支配地域だったアレッポが政府によって奪還されようとしていた時、人権擁護活動家たちは引き続きがれきから子どもたちを救出し、医療対応の調整をし、継続する爆撃に関する報告を録音してジャーナリストに送るといった活動に時間を割いていた。

彼らはアブドゥラのように、活動家、援助スタッフ、戦地通信員、コミュニティー・ボランティアという役割を一手に担っていた。彼らは、アレッポで行われている暴力のまさに目撃者で、国連、外国の援助団体、国際人権団体、メディアにとって唯一の信頼できる情報源なのである。

彼らは少しでも多くの命を救うための対応に追われている上、これまでの事例からもインタビューを受けることが彼らの拘束のリスクを高めてしまうことが分かっている。それにもかかわらず報告活動をするのだ。

アブドゥラは、周囲に知られていてリスクが高い活動家と、可能な限り静かに暮らしている人々の間には、平均寿命で50歳ほど差があるのではないかと考えている。

彼は過去に多くの組織から命を狙われ、すでに死んでいたかもしれないが、だからといってそれが黙ることの合理的、あるいはやむにやまれぬ理由には当たらない、と考えていると述べた。

「今日か、あるいは100年のうちに、どちらにしても今地球上に生きている人は誰もが死を迎えます。従って私たちにできる唯一のことは、生きている間に他の人々のためになることする、そう取り組んでいくことなのです」◆

エリン・キルブライドは、フロント・ライン・ディフェンダーズで働く。
http://frontlinedefenders.org


2017年3月号NI500p18-19 Everybody's target の翻訳です。c500-100.jpg



  1. 2017/03/31(金) 23:01:00|
  2. 暴力・平和・人権

【翻訳記事】反移民で結束するヨーロッパ


22188426362_0854c8df28_z.jpg
ハンガリー南部のSzeged難民キャンプ
Martin LeveneurCC BY-ND 2.0


欧州市民社会は、難民に対するハンガリーの姿勢をこれまで率直に非難してきた。

ハンガリーではビクトル・オルバン首相による反移民キャンペーンが行われてきたが、10月2日の国民投票(投票率40%)では、投票者の98%が「ハンガリーの外国人受け入れ分担」に反対した。

この問題に関心を持つ人の多くはこの国民投票を、「古いヨーロッパ」とヴィシェグラード諸国(ハンガリー、チェコ、ポーランド、スロバキア、以下V4)間に横たわる深い溝の象徴と見る。

V4の難民受け入れへの消極姿勢は欧州連合(EU)の「価値感」とは相容れないものだ、と彼らは言う。

しかしV4のリーダーらは、庇護を求める人々の移動の自由を否定し、彼らをシェンゲン圏から可能な限り遠く離れた場所にとどめておくことを目指し、できれば収容所に収容するという国境管理の主要原則を盾に強気である。

2015年末の数週間、ドイツとオーストリアが「バルカンルート」からの難民に国境を開いたが、それに反対したのはV4だけではなかった。

その歓迎政策は難民に関する欧州ルールを全て破り、EUの中心地域とさまざまなメンバー国は真にパニックと呼ぶべき状態に陥った。

今年2月、マニュアル・ヴァルス仏首相はミュンヘン訪問の際に、「難民をこれ以上受け入れることは不可能だ・・・。これまで議論し交渉してきたこと、つまり『ホットスポット(難民関連手続きを行う難民管理センター)』運用や対域外国境監視などを実行する時が来た」とメルケル首相に非難めいた口調で話した。その言葉は、EUの創設理念に含まれる他国に庇護を求める権利をEUが20年以上にわたっていかに踏みにじってきたのかを、私たちに思い出させてくれるものであった。

EUは、庇護を求める権利よりも国境管理を重んじ、祖国を追われた人々がジュネーブ条約や国際協定に沿って難民申請手続きを行うことを妨げてきた。

ヨーロッパの規則、特にダブリン規約は、祖国を追われた人々を「到着国」に集結させて次の国への移動の自由を制限する。ドイツ国境が再び閉鎖され、メルケル首相が他の欧州諸国とこれまでずっと共有してきた元の方針に戻った後は、イタリアやギリシャに向けて、EUの「安全」が確保できず、「難民流入」に不十分な対応しかできていないことへの非難や不平、不満の言葉をぶつけることができた。

欧州委員会が2015年春から推し進め、2016年2月から積極的に運用したホットスポットは、「移民危機」の解決策を提示したものだった。それはつまり、欧州諸国から職員を派遣して移民の身元確認と手続きの優先度を決めるキャンプをギリシャの島々やイタリアに開設し、海を渡ってEU国境にたどり着く難民をもっと多数追い返そうとするものである。このような目的を追求するため、トルコを「安全な国」として認定し、2016年3月にレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領と協定が結ばれた。欧州委員会は「送還者」数を増やす方向で、「経由国」や「出身国」からより一層の協力を得ようと数カ月の間議論を行ってきた。

次の国への「移送」策そのもの、つまりギリシャやイタリアに到着した庇護を求める人々をEU諸国間で受け入れ分担するという暫定ルール自体でさえ、ホットスポット運用が押しつけられて変更されてしまった。

2016年9月26日、当初見込まれていた数の10%にも満たないわずか5,600人が「移送」された。同日、誰もが劣悪この上ないと批判するギリシャのキャンプに6万人以上が押し込まれた。今後、「移送」人数は減少しそうである。開始後すぐに、移送策は失速してしまったのだ。

7月、国連人権高等弁務官は、エーゲ海諸島が「広大な抑留地帯」になってしまったことに懸念を示した。2016年の始めから数えても、エーゲ海では4,000人以上の人々が死亡した。このようにエーゲ海が広大な墓場と化した後、ギリシャはヨーロッパの政策によって収容キャンプ列島に変えられつつある。

この状況は、人権擁護を訴える人々にとっては衝撃だった。しかしそれは、EU域外に難民抑留施設を作って管理する方がむしろ好ましいと考える多くの国の指導者たちの間にも不安を広めた。ビクトル・オルガン首相は9月24日、英国のトニー・ブレア元首相の2003年の提案を持ち出し、難民を送るべき場所として「EUが資金を出して警備も行う大規模難民キャンプを作るべきだ」、難民は「難民申請審査期間中そこで待機することを義務づける」べきだ、と述べた。彼の言葉は深刻に考える必要がある。ハンガリーはシェンゲン圏において国境を実際に封鎖した最初の国だったかもしれないが、その後その方法は他国にも取り入れられ、特にフランスと英国で顕著になっているからだ。

ハンガリーがセルビアとの国境沿いに「反移民の壁」を築いた時、当時のフランスの外相ローラン・ファビウスは、「動物用にも張らないような場所に人間用のフェンスを張るなど、ヨーロッパの価値観を尊重してない」と述べた。

しかし、キャンプと壁の世界を推し進めるのはハンガリーの首相のプロジェクトだけではない。それは20年にわたってEUとその加盟国を含む多くの国々によって進められてきた移民政策の主要な特徴でもあるのだ。

本稿は、Open Democracyに2016年10月11日に掲載された記事に加筆、修正したものです。

エマニュエル・ブランチャード
移民の疎外化や送還、国境封鎖、移民管理を国外で実施する政策に反対するヨーロッパとアフリカ間のネットワーク、Migreuropの会長。


NIブログ記事"Europe: united against refugees"の翻訳です。

翻訳協力:斉藤孝子


  1. 2016/12/11(日) 10:53:26|
  2. 暴力・平和・人権
次のページ