NIジャパンブログ

【翻訳記事】旅の終わり


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写真は1985年、28歳のマリアマ・ガネマ。
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今回クリス・ブレイザーは、1985年から10年ごとに訪問している西アフリカのブルキナファソの村を再訪した。

サブテンガ村に続く新しい道路ができていた。私はとても慎重にその道路をミニバイクで旅したが、素晴らしいことに危険な目に遭うことは全くなかった。時代とともに変わる私の交通手段は、地域の開発を反映している。

1985年、私は撮影スタッフの一員として初めてこの地を訪れた。その当時は、現地で依頼した四輪駆動車に機材を積み、川を渡って村へ行った。村の中では徒歩であちこち歩き回った。1995年に私が初めてひとりで訪問した時は、どこへ行くにも徒歩だった。ガランゴの町まで4キロメートルの道のりを歩き、村の周囲も毎日かなりの距離を歩き回った。2005年、私はガランゴの町に滞在し、市場で買った自転車で村へ行き、その周囲を回り、自転車は帰国の時に人に譲った。

私は今回も同じようになるだろうと考えていたところ、私の訪問に不可欠な協力をしてくれたダクパ協会という地元の優れたNGOが、私に原動機付交通手段を用意してくれた。

 はるかかなたの世界

1985年夏、私は30歳の誕生日をサブテンガ村で迎えた。当時私はニュー・インターナショナリスト内ではどちらかといえば新入りのスタッフで、その時は出演者探しの仕事を与えられていた。それは、TV用ドキュメンタリーフィルム『Man-Made Famine(人間が生み出した飢餓)』撮影のため、カメラの前で自分の生い立ちや境遇などを語ってくれる女性農民を探すというものだった。当時革命の騒動の真っただ中にあったブルキナファソで、私は現場の成り行き任せで女性を探そうとしていた。しかし、適任の女性が南東部のガーナとトーゴーとの国境近くのサブテンガ村いるということが分かったのは、私の努力ではなく監督のつてによるものだった。私は撮影には何の役にも立たないスタッフとなってしまった。そんな状況もあり、私はしばしば単調になる撮影に付き合うことをせず、マリアマ・ガネマというい若い女性と一緒に村を歩き回ることにした。当時マリアマは、地元の革命防衛委員会の女性代表に選出されていた。また、私の通訳兼ガイドを務められるだけの十分なフランス語を学校で習っていた。

その後私は、人として、そしてジャーナリストとして、無数の幸運によって素晴らしい機会に恵まれたことにすぐに気づいた。その村の生活は、欧米諸国の生活とは想像以上にかけ離れたものだった。住民は自給自足の農業で生活し、サヘル[訳注:サハラ砂漠南縁部の半乾燥地帯]の気難しい大地から収穫できる作物でなんとかやっていた。ほとんどの人々は畑で使う家畜も持っていないようで、ダバスと呼ばれるくわを持って大地を耕すという骨の折れる作業を行っていた。水は、頭に乗せた大きな容器に入れて井戸から運び、しばしば遠くの井戸から運ばれてきた。ほとんどの家庭では、まぎれもなく男性が世帯の主となっており、複数の妻を持つことも珍しくはなかった。そして村には、学校も保健センターも存在しなかった。

これを言い換えれば、本誌の中でいつも議論しているような、あるいは国連や世界銀行といった権力層が思い描いたりような「開発」を経験したことのない村である。

村の生活は、文化や富という意味でも欧米の生活とはかけ離れているが、私の故郷の人々とサブテンガ村の人々の間の共通点らしきものを発見し、正直なところ驚いた。それでも私はグローバルな正義と公正という概念に強くこだわっており、すべてのアフリカ人を十把ひとからげにして同じ箱に入れ、「貧困、飢餓、紛争など」というラベルを貼っていた。この点で私は依然として罪を背負っていた。今では私も、単なる知識というよりも、心情的に理解していることがある。それは、誰にでもその個人に特有の語るべき物語があり、その多くは困難な中でも生きていくということに関する物語で、家族と友人から強さと支えを得ていることにも関連する話だということである。私が後に記すように、「いったんその村の中に足を踏み入れれば、そこでの生活が可能であることに気付くだけでなく、そこにはあらゆる人間ドラマが繰り広げられていることが分かり、人々の姿がいきいきと浮かび上がる。アフリカの村人たちの姿は、論文の中の統計や意図的なイメージで出版物に描かれているのとは違って見えてくる。彼らは現実に肉体と感情を持ち、単なるひどく痛々しい最期だけではなく、誕生と日常の営みもあることが分かる。人々は愛し合い、笑い、踊り、夢を抱き、苦しみ、喜ぶが、これらのことは私たちと何ら変わらないのだ」

一言で言えば、物質的、文化的に大きな隔たりがある中で、私は友人を得ることが可能だと感じたのだ。もちろん、マリアマはその鍵となる人物だった。彼女は驚くほど惜しみなく時間を割いてくれて、彼女自身の人生と物事への向き合い方について包み隠さず実に率直に語ってくれた。通常は外からやってきたジャーナリストには困難なあらゆることが、村における彼女の人気や尊敬のため可能になった。

1985年のサブテンガ村での私の経験は、私の世界の見方を変え、その後10年間執筆したものにも一定の方向性を与えた。しかしそれでも、この貴重な機会を十分に活用できていないと感じた私は弊誌編集部に訴え、10年の「開発」の歩みがコミュニティーの生活にもたらす変化を取材するため、1995年に私が現地取材できるよう説得を試みた。

 カミソリの終わり

村人たちと郵便でやりとりすることが不可能と分かり、どうすればいいいのか、私が出会った人々が無事でいるのかをどうやって確かめられるのか、私は途方に暮れた。私が最初に訪問した1985年は、雨が降らず食料の備蓄は徐々に減ってほとんど底をつき、この国の貧困と保健に関する全般的に悲惨な統計を読めば、どんな災難が起きても不思議ではなかった。さらには、腐敗した次期大統領ブレーズ・コンパオレによって平等主義的な革命がつぶされた。彼は1987年、元同胞であり、未来への理想的な道のりを明確に持っていたトーマス・サンカラを殺害し、その後は昔から変わらない私腹を肥やす道のりを進んだ。

だがとても喜ばしいことに、私が主に連絡をとっていた人々は無事で元気にしていることが確認できた。さらには、開発という意味でも喜ばしい変化を多数報告することができた。今では村にも3つの教室を備えた学校ができたものの、それでも必要な教室数の半分である。だが、いずれにしろ前進している証ではある。これまでずっと薬はなくスタッフも不在のままだった「診療所」が、現在は看護師と彼の妻がアシスタントとして働き、保健センターとして完全に機能し、とりわけ母子保健に関する取り組みに積極的になっている。

そこでの出産の多くを取り上げたのはマリアマである。彼女はわずかな給料をもらいながらフルタイムのアシスタント保健スタッフとして働いた。彼女は専門の研修は受けていないが、仕事を通じて学んでいった。

彼女はその時38歳となり、7人の子どもがいた。10年前彼女は私に、子どもは4人で十分と言っていた。その当時、子どもたちの面倒を絶えず見なければならないことを考え、自分のために人生の時間を使いたいという思いを抱いていた。しかし彼の夫のイッサは彼女の望みを聞き入れず、伝統的な農民の考え方である、子どもは多ければ多いほど田畑での労働力の足しになり、老後の生活も安心できる、という考え方を肯定した。また一方で、首都から村に有効な避妊方法が伝わってきたのは1990年代初めになってからだった。

1995年に報告した話の中で、最も大きく希望にあふれる話もまた、マリアマ自身の人生に直接関係するものだった。10年前、村で初めて、そして唯一FGM(女性器切除)という慣習に反対していたのがマリアマで、彼女自身はFGMを受けていたが、長女のメムナツのFGMは許さなかった。私はこれには大きな動揺を覚えた。彼女は夫や村の実力者たちに、この習慣に従うよう強要されないだろうか? それとも、この件は高齢の「良識ある女性たち」の中の誰かに委ねられ、結局メムナツにはカミソリの刃が向けられてしまわないのか?

私が知った結末は、実に珍しいものだった。メムナツに加えて妹のアセタもFGMを受けていないだけでなく、マリアマのような地域の女性たちからの圧力と政府が発信したFGMの健康に与える深刻な悪影響についてのメッセージが相まって、村での風向きは変わった。ほとんど目の見えない村長が私に、FGMをやめるべきだという考えに変わった経緯と理由を語った。そして、以前はFGMに3年かかわっていた高齢の女性までもが、新しい考え方に変えたことを私に話してくれた。

1995年の弊誌特集号「Heart and Soul: ten years of change in an African village(ハート・アンド・ソウル:アフリカの村における10年の変化)」は好評だった。おかげで、さらなる変化を探るために10年後に再度現地取材をするという私の提案は、スムーズに承認された。そして2005年、村は依然として自給自足の農業コミュニティーで、現金はおおむね海外からの送金がある場合に限られていた。そして、特に生活に最低限必要なものに関して、さらに多くの発展について報告することがあった(本誌英語版p14-17"Then and Now"の写真を参照。30年での大まかな変化を示している)[訳注:"Then and Now"の一部翻訳をNIジャパンメールマガジン第172号に掲載]。

2005年、わずかだが村でも携帯電話を使用する人が現れた。ただし充電は、電気が通ったばかりの町ガランゴまで行く必要があった。そして2016年の訪問では、以前に比べれば旅の日程は手探りではなくなった。私は携帯電話のテキストメッセージをマリアマに送り、彼女と他の村人たちに私が村に向かっていること、そしていつ頃着くのかをあらかじめ正確に伝えることができた。

 2016年の村

今回の訪問も今までとは変わらない。私は危険もあるミニバイクで旅をし、この雨の季節にはいくつか現れる道路を横切るマリゴ(季節によって流れる小川)もミニバイクで渡った。今回は村でどんな発見があるのか、胸が高鳴っている。未舗装ではあるものの、でこぼこのないびっくりするほどきれいな新しい道路が、アスファルトの主要道路から枝分かれして伸びている。しかしそんな道も、サブテンガ村の中心部まで2~3キロメートルのところで昔と変わらないより普通の柔らかい砂の道になる。

これまでこの村で多くの時間を過ごし、主な目印となる物や建物を容易に認識できるようになっていると自負していた。しかし、最も乾燥した時期に訪れた1985年から最も雨の多い時期の訪問だった2016年まで、毎回異なる季節に訪れており、そのせいで目印はいつもだいぶ違うように見える。あるいは、単に私の記憶があいまいになり、方向感覚もかつてないほどひどくなってきているだけなのかもしれない。しかしどんな理由にせよ、私はなんとか正しい道をたどり、保健センターとは気付かずにその建物の前を通り過ぎ、私の古い友人のオウスマネがそこの薬局から出てきて私に声をかけようと追いかけてきてようやくそれに気付いた。

私は帰ってきた。さて今回、人々の暮らしにどんな変化が見られるのだろうか。◆

※写真付の記事は、他の記事とあわせて3月にPDF版に掲載予定。


2017年1/2月合併号NI499p10-12 Journey’s End の翻訳です。c499-100.jpg



  1. 2017/02/15(水) 00:39:22|
  2. 国・地域

【翻訳記事】アフリカで最も才知あふれる若き発明者たち


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画像をクリックするとNIの英語記事のページが開きます。各発明者の写真のキャプションは次の通りです。
写真1枚目:ケニアのキスムにある、トゥクトゥクを電動車にする作業場の予定地を訪れたアレックス・マカリワ。
写真2枚目:エドウィン・インガンジは、ユーザーを効果的で効率的な緊急サービスに迅速につなぐ、ウサラマというモバイルアプリを開発した。
写真3枚目:ジェームズ・ヴァン・デ・ウェルトと彼が開発した箱の中のオフグリッドの電気供給システム「ソーラー・タートル」
写真4枚目:ジェームズ・ヴァン・デ・ウェルトのソーラー・タートルのバッテリーには、リサイクルのボトルが使われている。
写真5枚目:ピーター・ミリアが手にしているのは、彼が開発している階段を上るEコン車いすの小型化した試作機。
写真6枚目:工学イノベーション・アフリカ賞コンテストへ寄せられたモデルや機器。



階段を上る車いすや電動トゥクトゥク[訳注:東南アジアなどで使用されている三輪自動車で、通常はガソリンを燃料とする]は、コミュニティーが直面する課題に地元エンジニアたちが示した答えである。ローレンス・イヴィルの報告。

「999」[訳注:ケニアの警察通報用電話番号]に電話しても、誰にもつながりません」、とエドウィン・インガンジは嘆く。この22歳のケニア人は2014年後半、学校からの帰り道にナイロビで武装強盗に襲われながらも生き延びた。「みんなただ我慢していますが、限界です」

エドウィンは、工学イノベーション・アフリカ賞の候補者として残った16人の技術者のひとりだ。最終選考に進んだ彼らは、2016年11月にロンドンのショーディッジに集まり、自らの経験を熱く語り合い、それぞれが挑んでいるさまざまな取り組みについて議論した。

 困難な環境でも積極的に

エドウィンは、ウサラマというモバイル用アプリを開発した。それは、機能しないケニアの999に対する解決策として、犯罪率の高い地域のユーザーに緊急通報機能を提供するものだ。スマートフォンをシェイクする(振る)と、家族、友人、地域の救援サービスなどに通報者の居場所が伝わり、対応を可能にする。ケニアのモバイル普及率は88%で増加中だ。スマホは4人に1人が持っている。だがエドウィンの望みは、さらにその先をとらえている。「たとえアプリやスマホを持っていない人でも緊急通報を発すれば、それがショートメッセージとして送信されるようにする、というのが私たちの計画です」、と彼は言う。

治安に対する人々の不安に取り組むのは、エドウィンだけではない。工学技術者、ジェームズ・ヴァン・デ・ウェルトの夢は、電気がない南アフリカの地方村落にグリーン・エコノミー[訳注:持続可能な発展を実現するために必要な、環境に優しい経済]を導入することだ。彼が具体的に犯罪に注目するようになったのは、地方村落の学校を訪れた時だった。訪問した12校のうち、11校がソーラーパネルの盗難に遭っていたのである。

彼はヨハネスブルグのことを「世界の犯罪のメッカ」だと言う。そんな町で輸送用コンテナを金属製金庫として使用している業者からヒントを得て、彼は「ソーラー・タートル」という小型移動発電所を考案した。これは、輸送用コンテナ内に電池の入ったリサイクルボトルを置き、それをソーラーパネルで充電するもので、日中はコンテナの外で広げるソーラーパネルを、夜は安全にコンテナ内に格納する。

人々はタートルから電池入りボトルを回収し、それを自宅のシステムにつなげて利用する。 電気がなくなったら充電済の交換用電池を買えばよい。

投資家も地域住民も、犯罪多発地域で機能するイノベーションとして、ウサラマとソーラー・タートルを歓迎した。

 民間市場に賭ける

これら起業家たちの話を聞き、アフリカを席巻する技術革命をたたえるのは容易なことだ。しかし彼らの技術は、投資や支援無しには実現できず、それらを得るのは容易ではないことを誰もが理解している。

多くのアフリカの起業家たちの前に立ちはだかるのが、資金不足、頻発する犯罪、汚職、不安定な政治である。政府による調達(購入)がない場合、多くの発明者たちは自らの社会的イノベーション進めていくために、民間セクターの利用を試みている。

関連記事What will it take to bring electricity to Africa’s poor?(アフリカの貧困層に電気を届けるには何が必要か?)

その好例が、ピーター・ミリアのEコン車いすだ。電気電子廃棄物から作られた彼の発明品は、階段を上り、道路以外の場所も走り、ユーザーを直立させることができ、さらには車いすの機能としては意外なデータ処理ツールにもなる。

その車いすによって、ケニアで障がい者登録をしている150万人が職場に溶け込み、偏見と闘う一助になることを、ピーターは望んでいる。

一方で彼は、Eコン車いすを健常者向けに販売することにも挑戦する。高性能仕様の車いすへの出資者を集め、それを幅広いコミュニティー向けの標準仕様の車いすのコストダウンにつなげようと計画している。

エドウィンも、ウサラマに関して同じような方策をとる。彼のチームは警察や州当局の協力を得ようと働きかけていたが、官僚主義と腐敗に阻まれてからは、警備会社への足がかりを得るため、関係企業と深いつながりのあるケニア警備安全協会(Prosak)と提携した。

エドウィンもピーターのように、やがては貧困層や弱者にも彼のアプリが広がることを期待している。「ひとたび民間の警備会社と手を組めば、政府にその方式の採用を説得する強力な根拠になります」、と彼は言う。

 システムを変える

ケニアの別の有力な候補者に、アレックス・マカリワがいる。大胆なビジョンを持ちながらも語り口は穏やかな青年で、ナイロビの運輸業界において重要な部分を担うトゥクトゥクに革命を起こそうとしている。彼が使用するは、オフグリッド[訳注:電力会社などが電気を供給する送電網から独立している状態]のソーラー充電ステーションのネットワークから動力を得る新型電動車両だ。

「私たちのトゥクトゥクは、日々の使用において、従来のトゥクトゥクよりも運用コストが30~70%安くなることが分かっています。クザ・オートモーティブの基本方針は、持続可能な輸送をもっと使い易くすることです」、とアレックスは述べた。クザにはその電動トゥクトゥクを量産する力はまだないが、需要増加によって販売価格が下がることを期待している。

電動トゥクトゥクの主な課題のひとつが充電時間だ。インフォーマル経済[訳注:定義はさまざまだが、一般的には主に開発途上国で多く見られる経済のことで、政府の管理や規制の影響が少なく公式経済統計にも含まれない露店、行商、廃品回収などから成る経済のことを指す]で働く運転手には、6~8時間の充電時間を待っている余裕がない。アレックスの解決策は簡単だ。「バッテリー切れが近づいたら、残りのバッテリーで数キロ以内にあるカズ充電ステーションまで走り、そこで空になったバッテリーと新しい満タンのバッテリーを交換します」

アレックスは、「アフリカでは電気を得ることが大変大きな問題である」ため、電気を動力源とした輸送手段の大規模な採用については見通しが立っていないことを認める。それでも適切な支援さえあれば、人々は喜んで変化を受け入れるだろうと楽観的だ。

「私たちは、単なる操業したての小さな会社にすぎません。人々の啓発は政府の役割です。政府が持続可能な輸送だけでなく、環境にやさしい技術全般を明確に支援しているところでは、物事は飛躍的に進みました」

 「向上させていくのは私の役目」

彼らの地域社会が直面する喫緊の課題への挑戦について、幻想を抱く候補者はひとりもいない。地域での調達、政府支援、幅広い持続可能な考え方が無ければ、これらイノベーションの多くはとん挫してしまうだろう。

しかしアフリカの若い起業家たちにとって、冷淡な環境や不十分なインフラは、技術的創造力の障壁ではない。

アレックスが、「世の中には先進国と途上国という物差しがあり、人々はそれに従って国を認識する」と端的に言い表しているが、しばしばこれが、リードするグループと後に従っていくグループ、という話を作り上げる。

「しかし私は脳みそを持った人間です。現実に問題のある場所に暮らしているからこそ、私が実際に向上させて解決策を推し進める役を担うのです」

関連特集:2016年5月号メイン記事「人間中心のテクノロジーとは」

工学イノベーション・アフリカ賞は、ロイヤル・アカデミー・オブ・エンジニアリングが創設し、自分たちの地域社会が抱える問題の解決策の開発に向け、サハラ以南のアフリカ諸国のあらゆる分野の技術者の育成を促進する。

アフリカ賞は、アフリカ大陸中から有能な革新的技術者を選び、訓練やアドバイスを行い、素晴らしいアイデアを持つ技術者が起業家として成功するよう支援している。

Africa Prize for Engineering Innovation

by ローレンス・イヴィル

NIブログ記事Meet Africa’s brightest young inventors の翻訳です。

翻訳協力:斉藤孝子



  1. 2017/02/04(土) 00:08:20|
  2. ビジネス・企業

【翻訳記事】ある一夫多妻家族の父親


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写真は73歳のアダマ
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4人の妻と26人の子どもたち…。農業事業の経営者…。アリマタの看護師の夢…。

ゼナブーとアダマの一家は、サブテンガ村の中心から離れたビディガという場所に住む。1985年、ゼナブーの物語を撮影して映画を作った際には、私たちはその場所を拠点にした。彼女は、ガランゴ地区の当時の地区長の娘だ。村では地位が下になるアダマに恋をし、結婚をした。私たちがゼナブーに会った時、アダマにはすでに2人目の妻マリアムがいた。そして私たちがいる間に新しい子どもが生まれて洗礼も行われた。

1995年にブルキナファソを再訪した際、私はゼナブーの居住地「コンセシオン」[訳注:マリアマのコンセシオン内部の様子はこちらのYoutubeから視聴できる]から少し丘を登ったところにある以前と同じ家に滞在した。私が着いて1週間が過ぎたころ、腰が抜けるほどの発見があった。アダマと話をしていた時、彼の知人、あるいはもしかすると娘かと思っていた女性が、私たちの前を通り過ぎてまっすぐアダマの家に入っていった。よく見た光景のような気がして、私は身を乗り出してアダマに彼女のことを尋ねた。そして分かったことは、彼女はアダマの新しい4人目の妻のビンツで、まだ16歳だということだ。

私は、一夫多妻が普通という社会に滞在しているということは理解していたが、それでも毎日のように驚くことがあった。男女の関係に関する概念は、私たちとは根本的に異なるのだ。ビンツが、当時52歳のアダマには孫と言っていいほどの年齢であることはひとまず置いておいて、彼が4番目の妻をめとるべきだと考えたのは非常に特殊なことのように思える。依然として不思議なのは、ビンツが彼の古い友人の娘で、最初は彼の息子ハマルの結婚相手として紹介されたということだった。ハマルがその話を断ると、アダマが代わりに結婚すると申し出た。これには「慈悲」の側面もあったようだが、それもすぐに気にならなくなったようだ。彼女は自分の寝室もまだなく、毎晩アダマの家で寝ていたが、そのことに対しては他の妻たちから軽いひやかしの言葉が投げられた。その理由は、夫はどの妻にも公平に好意を持って気配りすることが求められているからだ。

 「若い男はとても愚かだわ」

私が直接ビンツに尋ねた時、彼女は若い男はとても愚かなので年齢は上の方がいいと言った。もちろん彼女は、児童婚で搾取されているとは思っていない。彼女と両親は、経済的に安心できることを判断して結婚に同意したのだろう。アダマは稼ぎ手としてしっかりしていたし、地域のマラブ(イスラム教聖職者)として信頼も非常に厚かった。

経済的には期待通りだった。私は訪問のたび、アダマの農民として取り組む姿勢(経営者としても)には感心させられた。正直に言うと、今振り返れば、私たちが制作したドキュメンタリー映画『Man Made Famine(人間が生み出した飢餓)』は、彼の名誉をやや傷つけていた部分があった。私たちは映画の中で、アフリカの女性たちがたくさんの食料を栽培しているにもかかわらず、それが政府や援助団体に概して無視されていることについて重要な指摘を行った。そしてその中に、アダマが大きな態度で女性の方が男性よりも働き者であることを認める象徴的なシーンがあった。「彼女がとても一生懸命働き、疲れていることは私自身分かっていたよ。でもね、伝統と習慣が、私に彼女を手伝うことをやめさせたんだ。その場所でその仕事をするのは女性と決まっていた。私が彼女を手伝うべきだなんて、思わなかったよ」

しかしアダマはその時は、主に家事について語っていた。農作業については、彼が主要な責任を負っていることは間違いないし、重労働も進んで行っている。彼は常に畑に出ているので、話を聞く時間をとるのが難しいくらいだ。ある日、彼の孫のンワディサに、畑にいる彼を一緒に探して彼のもとに連れていってくれるように頼んだ。するとそれは、主要道路の反対側にある農地までのかなり長い旅となった。その農地は、ジグソーパズルのように区切られた田んぼになっており、貯水池から水が引かれていた。今までこの村で見たこともなかった新しい灌漑システムを使用していることに私は感銘を受けた。以前は、この村のような乾燥した場所でこんな水田が可能だとは考えたこともなかった。

 ズボンをまくって田んぼの中へ

いつもの通りアダマは、私とおしゃべりをして時間を浪費するよりも、仕事を終わらせることへの関心の方が強かった。娘たちが苗代の苗で田植えするため、彼は田んぼに向かって準備に集中していた。私は何もせずに日陰に座っていることに少々居心地の悪さを感じていたところ、娘のひとりから冗談めかして手伝ってくれないかと言われ、私は性急に靴を脱ぎ、ズボンのすそをまくり、寄生虫によって住血吸虫症にかかるリスクも顧みず、彼らの作業に加わった。2005年にこの家族と一緒に綿花を摘んだ時と同じように、私が二つ返事で協力したことに彼らは喜んだ。

この田んぼは農業協同組合活動の一環で、アダマはその組合で灌漑担当グループのリーダを務めていると彼は説明した。道路の反対側ではこのような灌漑は不可能で、明らかにこちらの農地の方が有利である。また、村人たちが化学肥料に切り替えたのは7年前からだが[訳注:ある日村に農学者がやってきて化学肥料の効果を説明したが、村人たちは家畜のふんで十分と取り合わなかった。しかし化学肥料を使用した農民の収穫量増加を目の当たりにし、次々と化学肥料に切り替えていった]、彼は数十年にわたって化学肥料を使っている。彼は70代半ばで、私たちの社会ではその年になれば退職後の人生を楽しむこと以外は考えないだろう。しかし彼はますます活動的になっている。

このような状況で、おそらく彼の4人の妻は経済的な面では不満はほとんどないだろう。1995年、若い妻たちが家に迎えられたことに対し年齢が高い妻たちが適応していく中で、彼女たちの不満にはうすうす気付いていたが、今日のような状態になっていくことはおそらく自分でも分かっていた気がする。2005年と2016年には、他の妻たちがいることで家事を分担できるメリットがあるという基本的な考え方に基づき、妻たちはとても仲の良い姉妹のような感じになっていた。

そして現在、なんという大家族になったのだろうか。子どもは26人となり、孫は何人いるのか正確には分からない。その中の最年長の娘2人のうちのひとりが、2006年5月号のNIの表紙を飾ったサラマトゥである。1995年に会った時、彼女は聡明な女の子で学校に通っていた。私はアダマに、将来彼女が中学校に行く学費を払うつもりなのかあえて尋ねてみた。すると彼は、そうするつもりだと答えた。

2005年に再訪した時に最も落胆したことのひとつが、彼がそうしなかったことだ。そのため彼女は伝統的な結婚年齢である17歳で結婚するほか選択肢はなく、彼女の夫の家族と暮らしていた。近くの村に彼女と彼女の生まれたばかりの赤ちゃんを訪ねて行った時、彼女の置かれた状況に私はショックを受けた。彼女の夫は仕事を探しにコートジボワールへ行き、いつまた一緒の暮らせるのかは分からない状況。そして彼女は夫の家族と一緒に暮らしていたが、実家での健康的な暮らしに比べれば厳しい状況にあった。

幸いにも今回の訪問で、少し良いニュースが聞けた。サラマトゥは現在夫と3人目の子どもと一緒にコートジボワールのアビジャンに住んでいる。そして2人の娘ンワディサとレイラはサラマトゥの両親と一緒に暮らしており、サブテンガ村の学校に行くことができるという。

また、私の横で田植えをしているビンツの娘のアリマタは、21歳だが現在も学校に通っている。このことを考えると、アダマはおそらく女の子の教育に関して考えを変えたのだろう。アリマタは、薬剤師か看護師になることを目指している。



2017年1/2月合併号NI499p20-21 Autumn of the Patriarch の翻訳です。c499-100.jpg



  1. 2017/02/01(水) 23:29:40|
  2. 国・地域