NIジャパンブログ

【翻訳記事】旅の終わり


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写真は1985年、28歳のマリアマ・ガネマ。
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今回クリス・ブレイザーは、1985年から10年ごとに訪問している西アフリカのブルキナファソの村を再訪した。

サブテンガ村に続く新しい道路ができていた。私はとても慎重にその道路をミニバイクで旅したが、素晴らしいことに危険な目に遭うことは全くなかった。時代とともに変わる私の交通手段は、地域の開発を反映している。

1985年、私は撮影スタッフの一員として初めてこの地を訪れた。その当時は、現地で依頼した四輪駆動車に機材を積み、川を渡って村へ行った。村の中では徒歩であちこち歩き回った。1995年に私が初めてひとりで訪問した時は、どこへ行くにも徒歩だった。ガランゴの町まで4キロメートルの道のりを歩き、村の周囲も毎日かなりの距離を歩き回った。2005年、私はガランゴの町に滞在し、市場で買った自転車で村へ行き、その周囲を回り、自転車は帰国の時に人に譲った。

私は今回も同じようになるだろうと考えていたところ、私の訪問に不可欠な協力をしてくれたダクパ協会という地元の優れたNGOが、私に原動機付交通手段を用意してくれた。

 はるかかなたの世界

1985年夏、私は30歳の誕生日をサブテンガ村で迎えた。当時私はニュー・インターナショナリスト内ではどちらかといえば新入りのスタッフで、その時は出演者探しの仕事を与えられていた。それは、TV用ドキュメンタリーフィルム『Man-Made Famine(人間が生み出した飢餓)』撮影のため、カメラの前で自分の生い立ちや境遇などを語ってくれる女性農民を探すというものだった。当時、革命の騒動の真っただ中にあったブルキナファソで、私は現場の成り行き任せで女性を探そうとしていた。しかし、適任の女性が南東部のガーナとトーゴーとの国境近くのサブテンガ村にいるということが分かったのは、私の努力ではなく監督のつてによるものだった。私は撮影には何の役にも立たないスタッフとなってしまった。そんな状況もあり、私はしばしば単調になる撮影に付き合うことをせず、マリアマ・ガネマというい若い女性と一緒に村を歩き回ることにした。当時マリアマは、地元の革命防衛委員会の女性代表に選出されていた。また、私の通訳兼ガイドを務められるだけの十分なフランス語を学校で習っていた。

その後私は、人として、そしてジャーナリストとして、無数の幸運によって素晴らしい機会に恵まれたことにすぐに気づいた。その村の生活は、欧米諸国の生活とは想像以上にかけ離れたもので、住民は自給自足の農業で生活し、サヘル[訳注:サハラ砂漠南縁部の半乾燥地帯]の気難しい大地から収穫できる作物でなんとかやっていた。ほとんどの人々は畑で使う家畜も持っていないようで、ダバスと呼ばれるくわを持って大地を耕すという骨の折れる作業を行っていた。水は、頭に乗せた大きな容器に入れて井戸から運び、しばしば遠くの井戸から運ばれてきた。ほとんどの家庭では、まぎれもなく男性が世帯の主となっており、複数の妻を持つことも珍しくはなかった。そして村には、学校も保健センターも存在しなかった。

これを言い換えれば、本誌の中でいつも議論しているような村、あるいは国連や世界銀行といった権力層が思い描く「開発」を経験したことのない村である。

村の生活は、文化や富という意味でも欧米の生活とはかけ離れているが、私の故郷の人々とサブテンガ村の人々の間の共通点らしきものを発見し、正直なところ驚いた。それでも私はグローバルな正義と公正という概念に強くこだわっており、すべてのアフリカ人を十把ひとからげにして同じ箱に入れ、「貧困、飢餓、紛争など」というラベルを貼っていた。この点で私は依然として罪を背負っていた。今では私も、単なる知識というよりも、心情的に理解していることがある。それは、誰にでもその個人に特有の語るべき物語があり、その多くは困難な中でも生きていくということにまつわる物語で、家族と友人から強さと支えを得ていることにも関連する話だということだ。私は後にこう記した。「いったんその村の中に足を踏み入れれば、そこでの生活が可能であることに気付くだけでなく、そこにはあらゆる人間ドラマが繰り広げられていることが分かり、人々の姿がいきいきと浮かび上がる。アフリカの村人たちの姿は、論文の中の統計や意図的なイメージで出版物に描かれている姿とは違って見えてくる。彼らは現実に肉体と感情を持ち、単なるひどく痛々しい最期だけではなく、誕生と日常の営みもあることが分かる。人々は愛し、笑い、踊り、夢を抱き、苦しみ、喜ぶが、これらのことは私たちと何ら変わらないのだ」

一言で言えば、物質的、文化的に大きな隔たりがある中で、私は友人を得ることが可能だと感じたのだ。もちろん、マリアマはその鍵となる人物だった。彼女は驚くほど惜しみなく時間を割いてくれて、彼女自身の人生と物事への向き合い方について包み隠さず実に率直に語ってくれた。通常は外からやってきたジャーナリストには困難なあらゆることが、村における彼女の人気や尊敬のため可能になった。

1985年のサブテンガ村での私の経験は、私の世界の見方を変え、その後10年間執筆したものにも一定の方向性を与えた。しかしそれでも、この貴重な機会を十分に活用できていないと感じた私は弊誌編集部に訴え、次の10年の「開発」の歩みがコミュニティーの生活にもたらす変化を取材するため、1995年に私が現地取材できるよう説得を試みた。

 カミソリの終わり

村人たちと郵便でやりとりすることが不可能と分かり、どうすればいいいのか、私が出会った人々が無事でいるのかをどうやって確かめられるのか、私は途方に暮れた。私が最初に訪問した1985年は、雨が降らず食料の備蓄は徐々に減ってほとんど底をついた。この国の貧困と保健に関する全般的に悲惨な統計を読めば、どんな災難が起きても不思議ではなかった。さらには、腐敗した次期大統領ブレーズ・コンパオレによって平等主義的な革命がつぶされた。彼は1987年、元同胞であり、未来への理想的な道のりを明確に持っていたトーマス・サンカラを殺害し、その後は昔から変わらない私腹を肥やす道のりを進んだ。

だがとても喜ばしいことに、私が主に連絡をとっていた人々は無事で元気にしていることが確認できた。さらには、開発という意味でも喜ばしい変化を多数報告することができた。今では村にも3つの教室を備えた学校ができたものの、それでも必要な教室数の半分である。だが、いずれにしろ前進している証ではある。そして「診療所」は、これまでずっと薬はなくスタッフも不在のままだったが、現在は看護師と彼の妻がアシスタントとして働いて保健センターとして完全に機能しており、とりわけ母子保健に関する取り組みに積極的になっている。

そこでの出産の多くを取り上げたのはマリアマである。彼女はわずかな給料をもらいながらフルタイムのアシスタント保健スタッフとして働いた。彼女は専門の研修は受けていないが、仕事を通じて学んでいった。

彼女はその時38歳となり、7人の子どもがいた。10年前彼女は私に、子どもは4人で十分、と言っていた。その当時、子どもたちの面倒を絶えず見なければならないことを考え、自分のために人生の時間を使いたいという思いを抱いていたのだ。しかし彼の夫のイッサは彼女の望みを聞き入れず、子どもは多ければ多いほど田畑での労働力の足しになり、老後の生活も安心できる、という伝統的な農民の考え方を肯定した。また一方で、首都から村に有効な避妊方法が伝わってきたのは1990年代初めになってからだった。

1995年に報告した話の中で、最も大きく希望にあふれる話もまた、マリアマ自身の人生に直接関係するものだった。10年前、村で初めて、そして唯一FGM(女性器切除)という慣習に反対していたのがマリアマで、彼女自身はFGMを受けていたが、長女のメムナツのFGMは許さなかった。私はこれには大きく動揺した。彼女は夫や村の実力者たちに、この習慣に従うよう強要されないだろうか? それとも、この件は高齢の「良識ある女性たち」の中の誰かに委ねられ、結局メムナツにはカミソリの刃が向けられてしまわないのか?

私が知った結末は、実に珍しいものだった。メムナツに加えて妹のアセタもFGMを受けていないだけでなく、マリアマのような地域の女性たちからの圧力と政府が発信したFGMが健康に与える深刻な悪影響についてのメッセージが相まって、村での風向きは変わった。ほとんど目の見えない村長が私に、FGMをやめるべきだという考えに変わった経緯と理由を語った。そして、以前はFGMに3年かかわっていた高齢の女性までもが、新しい考え方に変えたことを私に話してくれた。

1995年の弊誌特集号「Heart and Soul: ten years of change in an African village(ハート・アンド・ソウル:アフリカの村における10年の変化)」は好評だった。おかげで、さらなる変化を探るために10年後に再度現地取材をするという私の提案は、スムーズに承認された。そして2005年、村は依然として自給自足の農業コミュニティーだった。現金は、おおむね海外からの送金がある場合に限られていた。そして、特に生活に最低限必要なものに関して、さらに多くの発展について報告することがあった(本誌英語版p14-17"Then and Now"の写真を参照。30年での大まかな変化を示している)[訳注:"Then and Now"の一部翻訳をNIジャパンメールマガジン第172号に掲載]。

2005年、わずかだが村でも携帯電話を使用する人が現れた。ただし充電は、電気が通ったばかりの町ガランゴまで行く必要があった。そして2016年の訪問では、以前に比べれば旅の日程は手探りではなくなった。私は携帯電話のテキストメッセージをマリアマに送り、彼女と他の村人たちに私が村に向かっていること、そしていつ頃着くのかを前もって正確に伝えることができた。

 2016年の村

今回の訪問も今までとは変わらない。私は危険もあるミニバイクで旅をし、この雨の季節にはいくつか現れる道路を横切るマリゴ(季節によって出現する小川)もミニバイクで渡った。今回は村でどんな発見があるのか、胸が高鳴っている。未舗装ではあるものの、でこぼこのないびっくりするほどきれいな新しい道路が、アスファルトの主要道路から枝分かれして伸びている。しかしそんな道も、サブテンガ村の中心部まで2~3キロメートルのところで昔と変わらないより普通の柔らかい砂の道になる。

私は、これまでこの村で多くの時間を過ごし、主な目印となる物や建物を容易に認識できるようになっていると自負していた。しかし、最も乾燥した時期に訪れた1985年から最も雨の多い時期の訪問だった2016年まで、毎回異なる季節に訪れており、そのせいで目印はいつもだいぶ違うように見える。あるいは、単に私の記憶があいまいになり、方向感覚もかつてないほどひどくなってきているだけなのかもしれない。しかしどんな理由にせよ、私はなんとか正しい道をたどることはできたが、ある建物の前を保健センターとは気付かずに通り過ぎ、私の古い友人のオウスマネがそこの薬局から出てきて私に声をかけようと追いかけてきてようやくそれに気付いた。

私は帰ってきた。さて今回、人々の暮らしにどんな変化が見られるのだろうか。◆

※写真付の記事は、他の記事とあわせて3月にPDF版に掲載予定。


2017年1/2月合併号NI499p10-12 Journey’s End の翻訳です。c499-100.jpg



  1. 2017/02/15(水) 00:39:22|
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